避暑地「軽井沢」の歴史的教会をめぐる
軽井沢が避暑地と呼ばれるようになって120年。ひとりの外国人宣教師が夏の別荘を建てたことに始まったその歴史物語にとって、「教会」という存在はなくてはならないもののひとつでした。緑の森に包まれた神聖な空間は、移りゆく時代の姿を映しながら、安らぎに満ちた場所として慕われ続け、いつしか軽井沢に聖地のイメージを浸透させていったのです。
アレキサンダー・クロフト・ショーは、明治6年に来日した英国国教会宣教師です。ある時友人と共に軽井沢を訪れ、生まれ故郷カナダトロントを思わせる爽やかな気候に感動、明治19年から避暑生活をスタートさせました。街道沿いの廃宿を改装した最初の別荘は、旅人が旅籠と間違えて昼夜問わず戸を叩くため、2年後、近くの山腹に新たな別荘を設けました。彼から軽井沢の素晴らしさを伝え聞いた外国人の友人たちが続々と避暑に訪れるようになったことから、最初の家はゲストハウスとして利用されることに。朝夕の祈りや日曜礼拝がその一室で行われていましたが、次第に手狭になったため、明治26年『ショー記念礼拝堂』の原型となる礼拝所が建てられ、大正11年に現在の十字型に整えられました。霧のヴェールに包まれた質素な佇まいは、聖地「軽井沢」の原点として、ひときわ清楚な薫りをたたえています。
ノーマン師とワルト神父の篤き想い
■ユニオンチャーチ
■軽井沢教会
■聖パウロカトリック教会
『ユニオンチャーチ』は、ダニエル・ノーマンらカナダメソジスト派の宣教師によって、明治30年に設立された外国人のための超宗派教会です。当初は鉄道技師のクラブハウスだった建物を利用していましたが、大正7年ウイリアム・メレル・ヴォーリズによって現在の形に改築されました。数百人が収容できる大講堂では、アジア全体を網羅する宣教師大会が開かれたり、コンサートや芝居が上演されたりと、外国人たちの夏の一大拠点となりました。地元の人たちに「軽井沢の村長さん」と慕われたノーマン師は、明治38年、軽井沢初の日本人向け教会『軽井沢合同基督教会』(現『軽井沢教会』)も創設しています。
「軽井沢に初のカトリック教会を」と願った英国人レオ・ワルト神父が、昭和10年に建てたのが『聖パウロカトリック教会』です。熱心な想いに応えて敷地は佐藤万平(万平ホテル当主)が協力、設計は友人アントニン・レーモンドが手掛けました。スロヴァキア風の鐘楼を持つ緻密な木造教会はアメリカ建築学会賞を受賞した秀作で、堀辰雄の小説「木の十字架」「風立ちぬ」にも描かれ、軽井沢を代表する風景のひとつとなっています。
文化人が愛した祈りの空間
■軽井沢高原教会
大正10年、島崎藤村・北原白秋ら当代随一の文化人を迎えて、自由教育協会主催「芸術自由教育講習会」が開催されました。星野温泉敷地内の材木小屋を利用した簡素な会場は講師陣に深い印象を残し、そのうちのひとり、聖書研究で知られる思想家内村鑑三によって「星野遊学堂」と命名されました。内村の唱えた〝誰にでも開かれた教会〟の理念は、地道な教会文化活動の中に脈々と受け継がれ、戦後、小高い丘の上を選んで『軽井沢高原教会』として新築・再生されてからも、自然に囲まれたフレンドリーな祈りの場として多くの人に親しまれています。
外国人別荘客の心をとらえたジャポニズム
満開のサクラで魅せる伝統的工芸品【軽井沢彫】
軽井沢の老舗ホテルや別荘の調度品としてよく見かける、細かい、木彫を施した渋い茶色の家具をご存知でしょうか。絢爛たる桜模様が掘り出されたこの「軽井沢彫」の家具は、日光彫りの名工たちを祖として、100年にわたり軽井沢に受け継がれている伝統的工芸品です。
外国人別荘客たちの”日本趣味”への強い憧れが、軽井沢ならではの和洋折衷の逸品を育て上げました。
別荘家具に求められた遊び心
明治19(1886)年、旅の途中に軽井沢を訪れた宣教師A・C・ショーと英語教師J・M・ディクソンが、自然の見事さと爽やかな気候に感動し、夏の保養地に選んだことが『避暑地軽井沢』の始まりでした。2年後にショー師が別荘を構えたのを皮切りに、友人の外国人たちが続々と避暑に訪れたことから、テーブル・椅子・サイドボード・衣装戸棚といった洋式家具が必要になりましたが、当時の軽井沢には家具店がなく、大工や建具屋に依頼してもなかなか思い通りの品が手に入りません。彼らは東京や横浜の本宅では、本国から運び込んだビクトリア様式の重厚な家具調度を使っていたものの、自然に囲まれた簡素なセカンドハウスの生活では、異国情緒たっぷりの木彫を施したような、遊び心のあるものがほしかったのです。明治40年代には外国人別荘が飛躍的に増加、需要もますます高まったことから、満を持して「日光彫」のメッカ日光から、ふたりの職人がやってくることになりました。
名工の技が生んだ〝満開の桜〟
軽井沢初の木彫家具店として明治41年にスタートしたのが、清水兼吉の『清水テーブル店(現『清水家具店』)』と川崎巳次郎の『川崎屋家具店』でした。最初は日光彫の伝統である牡丹・菊・松・竹・梅など一般的な植物文様を描いた物静かで控えめな製品がほとんどでしたが、明治45年頃から、更なる華やかさと日本情緒を強調した「満開の桜」がモチーフに取り入れられるようになりました。この桜文様を、写実を超えた様式化にまで高めたといわれているのが、清水テーブル店の名工・鈴木喜太郎でした。空に伸びる大樹とそれをとりまく小枝や花びらを洋家具の前面に配し、周囲に星打ちをしてくっきりと浮き立たせ、後世に残る見事な作品を生み出しました。同じく清水テーブル店の上田一は、独立して旧軽銀座に『上田商店(現『一彫堂』)』を開業、洋式ホテルや外国人別荘はもとより、室生犀星や堀辰雄など日本人別荘客からの特注家具も数多く手掛けたことで知られています。写実的で流麗な日光彫を地道に踏襲した大坂屋家具店の小西寅五郎、繊細で慎ましやかな表現を得意とした柴崎家具店の印南勝栄といった数々の名工の名も、その美しい作品とともにしっかりと歴史に刻まれています。
正統派軽井沢ライフの必需品
大正時代に入ると夏の軽井沢には、外国人ばかりでなく日本人有産階級の姿も見られるようになりました。彼らも外国人別荘客の伝統を継承し、質素なリゾート生活を大切にしたことから、シンプルな木造の山荘に渋い茶色の木彫家具の組合せは、すっかり軽井沢ライフを象徴するものとなりました。軽井沢とゆかりの深い建築家で、欧米式の合理的な住宅設計とキリスト教主義で知られるW・M・ヴォーリズも軽井沢彫を愛したひとりでした。現在も近江八幡の記念館には、彼自身のデザインと思われる軽井沢彫家具が大切に保存されています。
昭和34年、信濃毎日新聞に「軽井沢彫の手箱/正田美智子さんの調度品」という記事が掲載されました。美智子妃は生涯使われるお印として軽井沢での思い出に結びつく「白樺」を選ばれ、お道具のひとつにそれをあしらった優雅な軽井沢彫手箱を注文されたのです。たゆまぬ努力と創意工夫で伝統を受け継いできた職人たちにとっても、それは大きな栄誉であり、その後の発展の励みともなった嬉しいエピソードのひとつでした。
軽井沢彫写真協力/軽井沢彫工房 一彫堂
参考文献/軽井沢彫(西洋古典家具研究会発行)
草軽電鉄物語
のんびりゆったり… 高原列車はゆく
大正時代初めから昭和37年までの半世紀にわたって、軽井沢−草津温泉間を結んだ《草軽電鉄》。観光の立役者として、沿線住民の足として大活躍したこの高原列車は、隆盛を誇った戦後の日本映画にもたびたび登場し、浅間高原の爽やかなイメージを全国に広めるきっかけになりました。
最高時速はどうがんばっても40㎞、カブト虫のニックネームで呼ばれた愛らしい機関車がわずか1〜2輌の客車をひいて走るのどかな風景は、古きよき時代の軽井沢を知る人たちの脳裏に今も鮮明に焼きついています。
明治26年、高崎ー直江津間に鉄道が開通すると、外国人別荘地として注目を浴びはじめていた軽井沢は、一挙に中央との距離を縮めることになりました。時の鉄道院総裁・後藤新平による軽便鉄道奨励策もあって、世はまさに鉄道ブーム。そんな世相を背景に、草津への湯治客を見越して大正元年に設立されたのが「草津軽便鉄道」でした。第一期敷設工事が完了したのは大正4年。現在の軽井沢駅北口近くに始発駅「新軽井沢」が設けられ、小瀬温泉までの10㎞区間 をドイツ・コッペル社製の蒸気機関車が走りました。
当時の路線図を眺めると3つめの駅「三笠」から軌道が大きく西へ迂回しているのがわかります。これは当初、「沓掛」(現在の中軽井沢)も始発駅としての名乗りをあげていたため。沓掛は草津街道(現在の国道146号線)の出発点として、〝草津温泉の玄関口〟という大きな誇りがありました。かたや日本人名士が続々と訪れ始めていた軽井沢、結局この起点争奪戦は軽井沢側に軍配があがり、新軽井沢駅を起点とするかわりに沓掛に近い「鶴溜」にも停車駅を設けるという解決策がとられ、三笠から鶴溜に向かう大きなカーブが生まれたというわけです。
大正6年には吾妻まで、大正8年には嬬恋までという具合に着々と線路が延長され、大正15年には草津温泉までの全線55.5㎞が開通しました。機関車の電化も実現して、大正13年には社名が「草津電気鉄道」と改められました。
この時颯爽と登場したのが、アメリカ・ジェフェリー社製機関車《デキ12形》です。鉱山用のため最高時速は40㎞、草津までの所要時間2時間33分(各駅停車した場合の実質的所要時間は約4時間)とかなりスローな性能ながら、運転席には屋根がとり付けられ、はしごのように長いヤグラ形パンタグラフを持つユニークな姿は『カブト虫』と親しまれ、35年にわたって草軽電鉄の象徴として愛されました。
黄金時代の到来
大正末期から昭和初期にかけて、草軽電鉄は〝四千尺高原の遊覧列車〟のキャッチフレーズのもと黄金期を謳歌しました。昭和14年には社名が「草軽電気鉄道」(通称・草軽電鉄)と改められ、夏にはお茶のサービスが付く納涼列車を運行、貨車を改造して白樺をあしらった『しらかば号』や、切妻の丸屋根をもつ 『あさま号』などが人気を博しました。
雄大な浅間山をバックに高原を走る姿は、当時全盛を誇った日本映画にもたびたび登場しています。田中絹代主演の日本初トーキー映画『マダムと女房』(昭和6年)、斎藤達雄・桑野通子主演『彼女はいやと言いました』(昭和8年)、高峰秀子主演の日本初カラー作品『カルメン故郷へ帰る』(昭和25年)、菅原都々子主演『月はとっても青いから』(昭和32年)、森繁久弥・岡田茉莉子主演『山鳩』(昭和34年)…と、銀幕を彩った爽やかな風景は浅間高原の知名度を全国的に広めることになりました。
活況を呈した夏の旅客収入に加え、もうひとつの事業の柱に貨物輸送がありました。沿線に吾妻・石津・白根といった硫黄鉱山が控えていたこともあり、戦後国鉄やトラック輸送にその座をゆずるまで、硫黄・薪炭・建築資材などの運搬は草軽電鉄の独壇場だったのです。
さよなら、カブト虫
終戦直後には年間46万人の乗降客を記録したものの、昭和21年に国鉄長野原線が開通すると、首都圏から草津への足は群馬県側が主流となってゆきました。 昭和10年代には軽井沢周辺の自動車道路も整備され大型バス時代が到来、世代交代の波は確実に迫っていました。昭和24・25年の連続台風による被害に加え、昭和34年の台風7号では吾妻川橋梁が流出。この壊滅的な打撃が引き金となって、昭和37年、多くの惜しむ声に包まれながら草軽電鉄は半世紀の歴史に 幕を降ろしました。
現在の軽井沢風景を象徴する三笠通りの落葉松並木は草軽電鉄の軌道跡です。もしこの緑の間を今もカブト虫列車が走っていたら…。スピードと効率を求めて突き進んできた時代への、ほろ苦い想いが広がってゆきます。
写真提供/草軽交通株式会社
いつもそこに音楽があった… 避暑地軽井沢と音楽
避暑地として歩んだ軽井沢の歴史の中で《音楽》は、宣教師たちの教会文化として、あるいは別荘文化の中の教養として、欠かせないもののひとつでした。
そして〝日本の中の外国〟という特殊な地域性から、外国人音楽家にまつわる数々のエピソードも培ってきました。そんな軽井沢と音楽のお話を、時の流れの中にひも解いてみることにしましょう。
音楽文化の夜明けの舞台に
1921(大正10)年、《芸術教育夏季講習会》と銘打った夏季セミナーが、星野温泉で開かれました。「自由教育協会」が主催したこの講習会には、島崎藤村・北原白秋・内村鑑三ら当代きっての講師陣が名を連ね、材木小屋を改築した素朴な教室は補助椅子が出るほどの盛況ぶり。音楽の講義を担当したのは作曲家弘田龍太郎で、観念の押し付けに陥っていた唱歌から脱却し、子供の自由な表現を引き出す〝童謡〟を提唱、その後の教育界に大きな影響を与えました。
1957(昭和32)年、同じ星野温泉で開かれたのが、音楽評論家吉田秀和を所長に柴田南雄・黛敏郎・諸井誠ら新進作曲家たちが結成した「二十世紀現代音楽研究所」主催の《軽井沢現代音楽祭》でした。演奏会やコンクールで構成されたこのセミナーには、学生を中心に300人もの聴衆が押しかけ、海外の前衛的現代音楽が紹介される好機となりました。宴会用の大広間の舞台には、管弦楽やピアノによる小編成のアンサンブルが並び、指揮は斉藤秀雄が担当、愛弟子の小澤征爾が助手をつとめたことも語り継がれています。
軽井沢を通り過ぎた外国人音楽家
20世紀のフランスを代表する作曲家オリヴィエ・メシアンが軽井沢を訪れたのは1962(昭和37)年のことでした。ウグイス・クロツグミ・オオルリなど26種類にも及ぶ野鳥の鳴き声を、4日間にわたって朝4時から精力的に採譜する姿に、案内役をつとめた野鳥研究家星野嘉助も、「野鳥が自然界で合唱しているそのものが、譜に採られていく」と舌を巻きました。メシアンは鳥の鳴き声を独特の音楽語法に昇華させ、ピアノ曲「鳥のカタログ」「異国の鳥たち」「鳥たちの目覚め」フルート曲「黒つぐみ」など多数の作品を残しています。
創作の歓びに満ちた来訪とは対象的に、戦時下の軽井沢で過酷な耐乏生活を強いられた音楽家たちもいました。ヨーロッパ最大級のピアニストとして知られ、ベルリン音楽大学教授であり指揮者としても活躍したレオニード・クロイツァーは、1933年ナチスによる公職追放を受け、当時まだユダヤ系音楽家に友好的だった日本に逃れることを決意しました。東京音楽学校(現・東京芸術大学)に迎えられたものの、戦争の激化にともなって、1944(昭和19)年から終戦までの日々を外国人疎開指定地だった軽井沢で過ごすことになったのです。後進の優秀なピアニストに贈られるクロイツァー賞に名を残し、生涯日本で暮らした栄光の音楽家も、政治に翻弄された暗黒の時代をくぐり抜けたひとりでした。
昭和19年当時の軽井沢には、野球のスタルヒンや画家のブブノワ夫妻らとともに、クロイツァーと並び称されるピアノ界の巨星レオ・シロタも滞在していました。東方ユダヤ人としてウクライナに生まれ、ヨーロッパで活躍の後、作曲家山田耕筰から東京音楽学校に招聘された彼は、戦前は家族とともに軽井沢で優雅な避暑生活を送っていました。その同じ場所で、戦争末期の一時期辛い拘束生活を余儀なくされ、戦後は無念を抱きつつ米国に渡りましたが、温厚な人柄の師を慕う大勢の日本の弟子たちの協力で、最晩年に悲願の再来日を果たしています。
音楽の殿堂と歩む21世紀
終戦直前そのレオ・シロタのもとに、疎開先の上諏訪(長野県)から苦労して汽車を乗り継ぎ、レッスンに通う14歳の少女がいました。ピアニストの松原緑さんです。60年後、彼女は夫であるソニー名誉会長大賀典雄氏と退職金の使い道を話し合いながら、ふとその遠い日に想いを馳せ、こう呟きました。「音楽が似合う軽井沢には上質なホールが必要よ」。この言葉をきっかけに、大賀氏の音に対する理想を実現した《軽井沢大賀ホール》が誕生することになったのです。
そして、世界を舞台に活躍を続けてきた大賀氏の、真の理想はその先に控えています。「ホールがひとつ出来ただけではだめなのです。ザルツブルグのように、街中に音楽があふれ、人々の生活の中に本物の音楽が浸透しなくては」。〝諍いのない音楽の世界で身を立てたい〟と声楽家への道を誓った若き日の大賀氏の夢が、数々の時代を見つめた軽井沢で、この春、平和な音色となって響き渡ります。
ヴォーリズとレーモンド 〜軽井沢建築に影響を与えたふたりの外国人〜
明治時代半ば、西洋人の訪れにより避暑地の扉が開かれた軽井沢。今も旧軽井沢の小径を歩くと、古いバンガロー別荘に出会い、暖炉の石積みやペンキの剥れかかったテラスに、西洋の面影を感じることができます。
夏の清涼さを求め軽井沢を訪れた外国人の中には、当然ながら建築に秀でた人物の存在がありました。ひとりは軽井沢避暑団の理事長もつとめたW.M.ヴォーリズ、もうひとりは戦後日本の建築界に大きな足跡を残したA.レーモンドです。
彼らは軽井沢に夏のアトリエを構え、外国人に欠かせない“教会”や、快適避暑生活を送る“別荘”という軽井沢になくてはならない建物で、大いにその腕をふるいました。
1905(明治38)年、米国からキリスト教伝道を目的とした英語教師として来日し、琵琶湖のほとり近江八幡に赴任したウィリアム・メレル・ヴォーリズ (1880〜 1964)は、早くもその年の夏休みに友人エルモアと軽井沢を訪れています。幼いころ病弱だったヴォーリズは、大自然に囲まれたデンバーに移住して健康になった経験があり、緑溢れる軽井沢を一日で気に入りました。
二年あまりで教師を辞した彼は、京都YMCA会館の設計監理を皮切りに、独学に近い方法で経験を積み重ね、「ヴォーリズ建築事務所」を開設。欧米の技術を取り込みながら、学校・教会・オフィスビル・病院・個人住宅と、日本全国に多彩な建築物を生み出しました。
夏には事務所機能のほとんどを近江八幡から軽井沢に移し、ユニオンチャーチ・軽井沢会テニスコートのクラブハウス・軽井沢集会堂・マンロー病院など、避暑 生活向上のために結成された「軽井沢避暑団」関連の建物を次々と手掛けました。初期の宣教師の中にはミッション系学校の創設に関わった人物も多く、明治学院大学礼拝堂・同志社大学アーモスト館といった傑作は、夏の軽井沢で築いた人脈の結果といえるでしょう。
ヴォーリズがたびたび語った「建築物の品格は人間の人格の如く、その外装よりもむしろ内容にある」という言葉は、別荘建築にもよく表れています。下見板張りの壁に浅間石を積んだ煙突と、素朴な外観には派手な自己主張や華々しさは少しもありませんが、気候風土に即し、依頼主の気持ちに沿った温かみのある空間は、実際の暮らしの中でこそ快適さを発揮する見事なものでした。
アントニン・レーモンド(1888〜1976)が帝国ホテルのプロジェクトのため、 米国の建築家フランク・ロイド・ライトとともに日本を訪れたのは 1919(大正8)年のこと。師匠ライトが帝国ホテルの完成を見ず離日した後も、レーモンドとその妻ノエミは、日本建築への憧憬からこの地に留まる決心をしました。1933(昭和8)年には〝自分のために建てたものの中でもっとも楽しんだ〟と語るアトリエ「夏の家」を軽井沢に設け、スタッフとともにスタジ オワークを展開しました。現在塩沢湖のほとりに移築されているこの建物は、谷状の屋根や二階へのスロープの斬新さなど、木造モダニズム建築の伝説的存在となっています。翌年には、英国人神父の依頼で「聖パウロ教会」を設計、故郷チェコの尖塔を彷彿とさせる名教会が誕生しました。
夏の家も、聖パウロ教会も、杉・栗・カラマツ・火山岩など、できる限り地元で採取した材料が使われ、彼が日本建築の心と捉えた〝自然への信頼〟が貫かれました。同じ時代に、〝軽井沢スタイル〟と呼ばれた数軒の別荘群も手掛けていますが、残念ながら七十年経った現在は2・3軒が確認されるだけとなっています。
戦争のため米国に戻り、戦後、再来日を果たしたレーモンドは、『リーダース・ダイジェスト東京支社』『南山大学』で日本建築学会作品賞を受賞、名実ともに日本建築界の巨匠となりました。レーモンド建築の五原則は「自然にして、簡素で、質素で、力強くて、経済的」であること。ヴォーリズにも共通する〝自然に対する深い想いとシンプルな美しさ〟は、その後の軽井沢建築のバイブルとなっています。
中山道浅間三宿をゆく
上州と信州の境近くに位置する軽井沢は、江戸時代、中山道をゆく旅人たちにとって重要な宿場町でした。
今の旧軽井沢銀座と通りを同じくする軽井沢宿。中軽井沢駅前の国道に沿った沓掛宿。そして北国街道と中山道が分岐する追分宿。
険しい碓氷峠を越えて信州に入った旅人は、浅間山の腰あたりに続く、いわゆる「浅間根腰」の三宿に足を休め、立ちのぼる噴煙に旅情をかみしめながら、京へ、または善光寺へ草津へとそれぞれ歩んでいったのでしょう。
急峻を越えてひと夜の足休め
碓氷峠の難所を越えた江戸からの旅人が、初めてわらじをぬぐのが軽井沢宿です。ここは古くから山越えの要衝として知られたところで、逆に江戸へと向かう人びとも、難所を前に、ひと息入れたのではないでしょうか。現在の旧軽井沢銀座に沿って南北6町(約654m)に、大小の旅籠や茶屋が並び、多くの人で賑わっていたようです。
しかしこの賑わいは、天明3年の浅間山大噴火、寛政年間の2度の大火を経て、徐々に下降していきます。噴火により50軒以上の建物が焼け、120軒以上が壊れたといいますから、被害の大きさは大変なものでした。
明治期になると宿駅制が廃止され、さらに碓氷新道(現在の国道18号線)が開通。碓氷峠にはアプト式の信越線が通るようになり、宿場は衰退します。国際的避暑地として脚光を浴びるのは明治も半ばになってからです。
宿場の本陣は「軽井沢ホテル」へ、旅籠「亀屋」は「万平ホテル」へ、二手橋そばの休泊茶屋「旅籠鶴屋」は「つるや旅館」へ。時代を経て、宿場町は和洋入り混じる新たな装いで、再び多くの人を受け入れるようになりました。
千年をさかのぼる古い集落
軽井沢宿から沓掛宿までは1里5町(約4.5km)。離山を眺めながら西へと進み、湯川の流れを越えて、宿場内に入ります。もともと「古宿」という佐久郡最古といわれる集落があったところで、湯川そばに建つ長倉神社は、延喜時代(901~922年)にまで歴史をさかのぼる古い神社です。
本陣があったのは中軽井沢交差点のすぐそば。江戸降嫁の際に和宮皇女が宿泊された場所としても知られています。脇本陣は3軒あり、そのうちの「ますや」は 「枡屋本店」として近年まで営業していました。また、八十二銀行中軽井沢支店の駐車場では「脇本陣蔦屋跡」と刻まれた石碑を見ることができます。
三宿の中では規模は小さめですが、草津街道の入口に位置していたため、草津温泉往来の湯治客でも賑わいました。旧中山道をのんびり歩けば、「右くさつへ」と書かれた石仏やかわいらしい夫婦道祖神が、今なお旅情を誘います。
分去れの宿場に刻む人間模様
追分宿を西へ過ぎれば中山道と北国街道との分かれ道。交通の要衝だけあって旅籠も茶屋も多く、三宿の中でも大いに賑わった場所でした。
「飯盛女」と呼ばれる遊女を置いた旅籠の多さも特徴です。旅人だけでなく、軽井沢や佐久近辺の在郷の若者も農作業の合間にこっそり遊びに来ていたとか…。当時の馬子たちが道みちに口ずさんだ「馬子歌」に、宿場の飯盛女たちが三味線の手をつけたものは、全国の「追分節」の元祖となりました。
もっとも表の華やかさとは裏腹に、女たちの生涯は幸多いものでは決してなかったでしょう。宿場唯一の寺・泉洞寺には、ひっそりと侘しげな遊女の墓が残されています。
脇本陣兼旅籠屋だった「油屋旅館」は昭和12年に火事により消失。その後、現在の場所に再建されました。旧街道には一里塚や高札場跡、旅人を見守った石仏などが佇み、枡形の茶屋としての旧観をとどめる「つがるや」や、堀辰雄文学記念館の入り口に移された本陣の裏門が、往時の面影を今に伝えます。
さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを 追分の宿
宿場のはずれ、分去れの三角地帯に残る常夜燈や道しるべは、いつの世にもある人の出会いと別れのドラマを感じさせてくれるようです。
参考文献)
「カメラリポート中山道紀行」 NHK6局「中山道」制作グループ編 郷土出版社
「信州の文化シリーズ 街道と宿場」信州歴史の道研究会解説 信濃毎日新聞社
「軽井沢三宿の生んだ 追分節考」小宮山利三著 信濃教育会出版部
軽井沢の鹿鳴館〜若き実業家が描いた華麗なる夢〜
旧軽井沢の北に位置する別荘地・三笠の最も奥まった場所に、軽井沢屈指の観光名所『旧三笠ホテル』が建っています。木造様式ホテルとしては、札幌「豊平館」に次ぐ歴史を誇り、ゴシック調の優美な外観はいかにも軽井沢らしい雰囲気。明治の末に、小さいながらも颯爽と誕生した超高級ホテルは、西洋のリゾート感覚を身につけ始めた日本のエリートたちの御用達サロンとなり、異国情緒あふれる避暑地の夜を華やかなシャンデリアが彩りました。
ホテルを創業したのは、第十五国立銀行・明治製菓・日本郵船の重役に名を連ねた東京の実業家、山本直良(明治3〜昭和20)でした。農科大学(東大農学部の前身)獣医科出身の彼は、銀行家の父・直成から譲り受けた25万坪の土地で、最初は酪農を中心とした大農園を計画しました。しかし寒冷気候と浅間山の火山灰土という悪条件で牧草が育たず、事業の中心は別荘地開発や観光へと移ってゆきました。
明治19年にカナダ生まれの英国聖公会宣教師ショーが軽井沢を避暑地として発見して以来、急激に増えていった外国人客の需要に応えるため、明治30年代は「萬平ホテル」「軽井沢ホテル」など洋風ホテルが次々に誕生した時代でした。明治39年オープンの三笠ホテルも、最初はそうした外国人客が大半でしたが、大正期には日本の特権階級、政財界人の間に避 暑の概念が浸透し、いつしか彼らが顧客の中心を占めるようになっていきました。また、直良の妻愛子は小説家・有島武郎や里見を兄弟に持つ芸術家一族の出身だったことから、白樺派文化人たちの夏の社交場として利用されたことも、ホテル史の上に大いに知的な趣きを与えました。
建物を設計したのはロンドン仕込みの岡田時太郎で、八角の美しい塔屋でアクセントをつけたスティックスタイル(木骨様式)と、ドイツ式の下見板張りの重厚な外観はひときわ人目を引きました。監督は萬平ホテル(現・万平ホテル)の佐藤萬平がつとめ、棟梁は腕利きの誉れ高い地元の小林代造でした。カーテンボックスや家具には画家・有島生馬(愛子の弟)がデザインしたロゴが彫られ、一枚一枚丁寧な絵付けを施した洋食器も残っています。さらに直良は京都から陶芸家を招き 「三笠焼」を開窯したり、あけび細工や軽井沢彫りを奨励してそれを販売する三笠商店を設けるなど、芸術感覚を駆使した三笠一帯の開発に熱心に取り組みまし た。
客室30、定員40名と小規模ながら食事やサービスは一流、当時まだ珍しかった電燈シャンデリアや英国製カーペット、プールや水洗トイレまで完備され、駅からは黒塗り馬車の送迎付と見事な豪奢ぶりを誇ったホテルでしたが、事実上夏だけの営業では当然のように赤字経営が続き、青年実業家の夢は次第に色褪せてゆきました。大正14年、金融恐慌を目前にホテルは山本の手を離れ、昭和の激動期をくぐって昭和45年に宿泊施設としての役割を静かに終えました。
建物は取り壊しの運命にあったところ、その歴史的価値を惜しむ声があがり、昭和55年に国の重要文化財に指定されました。美しい自然をバックに優雅にたたずむ往年の名建築は、軽井沢の一時代を象徴する重要なモニュメントとなっています。
住所/軽井沢町軽井沢1339-342
TEL.0267-42-7072
TEL.0267-45-8695(軽井沢町教育委員会社会教育課)
開館時間/9:00〜17:00(入館は16:30まで)
入館料/おとな400円・こども200円
軽井沢・歴史の道を歩く
お気に入りの散歩道を見つけよう!
古くからの別荘地に美しい落葉松並木が続く「三笠通り」、天皇陛下にお茶を供した涌き水がそばを流れる「御水端通り」など、軽井沢には歴史的エピソードを持つ道がたくさんあります。明治時代半ばに避暑客として登場した外国人たちも、碓氷峠見晴台を「サンセットポイント」、雲場池を「スワンレイク」といった具合に、親しみをこめたニックネームで呼びました。こうした大切な歴史の逸話が忘れ去られることのないようにと、軽井沢では歴史愛好家らによる「歴史の道プロジェクト」が結成され、道の名前の選定が行なわれました。
春の陽を浴びながら、古き良き時代が薫るとっておきの散歩道を歩いてみるのはいかがでしょう。
まずは軽井沢駅北口から「軽井沢本通り」(コラム参照)を経て「万平通り」へ。森裏橋を右に折れた一角には「サナトリウムレーン」(ささやきの小径)と 「堀辰雄の道」(フーガの径)があります。かつてこの場所に、軽井沢を描き続けた作家・堀辰雄が一時期を過ごした1412番別荘(現在、軽井沢高原文庫に 移築)、チェコスロバキア公使館の山荘、マンロー病院(サナトリウム)などが建っていました。堀の名作『美しい村』では、公使館から流れるバッハのト短調フーガ、野薔薇の可憐なつぼみ、アカシアの香りなどに心惹かれながら、この界隈や聖パウロ教会前の「水車の道」を散策する主人公の心象風景がくり返し現われます。
堀が婚約者を失った傷心の中で『風立ちぬ』の終章−死のかげの谷−を書き上げたのは、万平ホテル裏手の「ハッピーバレー」(幸福の谷)に建つ川端康成氏の別荘でした。〝こんな人けの絶えた、淋しい谷の一体どこが幸福の谷なんだろう〟と呟かせたのも無理からぬほど、細い石畳みの小径は今もひっそりと静まりかえり、ロマンチックでどこかはかなげな堀文学そのものの雰囲気をたたえています。
ここから矢ヶ崎川をさかのぼり外国人宣教師施設〝チームセンター〟の前を通ってショー記念礼拝堂に出る道は、むかしから「お気持ちの道」の名で呼ばれています。
軽井沢に最初の別荘を建てた宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーにちなんで名付けられた「ショー通り」は、旧軽銀座通りと平行する一本南側の道で、彼の別荘があった大塚山へと続いています。その途中にある「犀星の径」は、作家室生犀星が40年以上の夏を過ごした日本風の別荘が残る風情あふれる小径、堀辰雄・立原道造ら若き詩人たちが出入りした往時を偲ばせています
万平通りとショー通りを結ぶ道には、かつて別荘の人々が音楽会や講演会などの催しを楽しんだユニオンチャーチの大講堂にちなんで「オーディトリアム(講堂)通り」の名が付けられました。教会の向かいにある軽井沢会テニスコートは、昭和32年に皇太子時代の天皇陛下と正田美智子様が初めて出逢われた運命の場所。コートで芽生えた世紀のロマンスは国民を歓喜の渦に巻きこみ、その後も皇太子時代の御一家と軽井沢は深いつながりで結ばれました。昨年、13年ぶりに軽井沢を訪れた両陛下は、早朝のお散歩にこの界隈を選ばれ、懐かしげに想い出の道を辿られました。
軽井沢を味わう珠玉の一冊
『軽井沢』幻想的な霧がたちこめるこの神聖な高原は、昔から多くの文人たちの心を惹きつけてきました。彼らは静謐に流れる時間の中で創作意欲をかきたてられ、ロマンチックな風景をたびたび作品にも登場させました。軽井沢の随所にたたずむ文学碑や作家たちが散策した小径をたどりながら、軽井沢文学の魅力をじっくりと味わってみることにしましょう。
「馬をさへ ながむる雪の あした哉」。旅人や荷馬を眺める芭蕉の姿が早朝の雪景色に浮かんできそうなこの句は、貞享元年、41歳の松尾芭蕉が旅の途中に詠んだもの。江戸時代の中山道・軽井沢宿、今は旧軽銀座と呼ばれる通りの東の端「ショー記念礼拝堂」の斜め向いに立つこの句碑は、蕉門の俳人・小林玉蓬によって天保14年に建立されました。
その先の二手橋を渡り、流れを少しさかのぼった矢ヶ崎川沿いには、室生犀星の『我は張り詰めたる氷を愛 す…』(詩集「鶴」より)の詩碑が建っています。犀星は大正から昭和中期にかけて詩人・作家として活躍、昭和31年から翌年にかけて東京新聞紙上に連載された自伝的長編小説『杏っ子』の中盤部分は、大塚山(軽井沢会テニスコートの裏手)の麓に今も残る軽井沢の別荘での疎開生活が舞台となっています。犀星は各地から寄せられる文学碑建設の申し出を断り続けた末、いつか不本意な物が出来上るよりは「他人に迷惑をかけることなく自分のちからで築建したい」(「犀星 軽井沢」)と、生涯最も慣れ親しんだ軽井沢に詩碑を建てる決心をしました。いかめしさを感じさせないようにと、碑面は石垣の中に奥ゆかしくはめ込まれ、小さな前庭といった趣の川原に立つ一対の俑人像の下には愛用の遺品も納められました。「不意の雨には雨やどりができるように」とまで心遣いを見せたその場所 は、文学碑にありがちな冷たさとは無縁の、文豪の心が生きる名所となっています。
旧軽銀座通りと並行する一本北側の小径「水車の道」 は、堀辰雄の小説『美しい村』や『風立ちぬ』にもたびたび登場します。チェコ出身の建築家アントニン・レイモンドが設計した聖パウロ・カトリック教会もこの通りにあり、堀辰雄が親友・立原道造の死を追悼して書いた短編『木の十字架』の舞台としても知られています。
ここから三笠通りに出て 落葉松並木を進むと、三笠別荘地右手の小高い場所に「有島武郎終焉地碑」がひっそりとたたずんでいます。大正12年、『生まれ出づる悩み』『或る女』など の作品で名を馳せた作家・有島武郎と人妻の婦人記者・波多野秋子による別荘での心中事件は、当時の社会に大きな衝撃を与えるとともに、まだ馴染みの薄い避暑地軽井沢の名を強く印象付ける結果にもなりました。有島家の別荘「浄月庵」があったこの場所には、弟・有島生馬の筆による終焉地碑と、武郎がスイスで知り合った少女チルダへ宛てた英文の手紙が刻まれた石碑の二つが設けられています。大正8年に書かれた短編『小さき影』は、浄月庵で過ごした夏の日を舞台に、母親を失った3人の幼い男の子を慈しむ父親の姿が描かれています。
かつて「沓掛宿」と呼ばれた中軽井沢。ここから国道146号線を北上した星野温泉入口右手の木立の中には、「からまつの林を過ぎて、からまつをしみじみと見き。からまつはさびしかりけり。たびゆくはさびしかりけり。」の有名な一章から始まる北原白秋の代表作『落葉松』全八章が刻まれた詩碑 が建っています。白秋は大正10年、星野温泉で開催された「芸術自由教育講習会」講師として、新婚の菊子夫人を伴ってこの地を訪れました。朝夕近くの落葉松林を散歩して生まれたというこの詩は、同年11月「明星」復刊号に発表され、安息の家庭を得た白秋がふたたび詩作の道に戻る記念碑的作品となりました。
浅間三宿の最後のひとつ「追分」は、堀辰雄・立原道造ら大正・昭和初期の若き文学者たちがこよなく愛した場所として有名です。大正12年、文壇の大先輩・ 室生犀星の知遇を得て初めて軽井沢を訪れた堀辰雄は異国の香りを持つ避暑地の雰囲気にすっかり魅了され、さらに帝国大学国文科に入学した大正14年には、 芥川龍之介と夢のような夏を過ごしました。昭和2年、その芥川の衝撃的な自殺に大きなショックを受けながらも、軽井沢での思い出の日々を小説『聖家族』に結実させ、文壇での地位を確固たるものとしました。その後の『風立ちぬ』を代表とする数々の名作でも、軽井沢の風土そのものが彼の作品の根底を流れる大きな要素となっていったのです。昭和26年、追分の地に新居を構えた堀辰雄は、病と闘いながらも「我々ハ《ロマン》ヲ書カネバナラヌ」と己の内に誓った熱い闘志を燃やし続けましたが、昭和29年49歳という若さでこの世を去りました。彼の死後旧宅を訪れる愛読者は後を絶たず、平成5年敷地内には記念館が建てられ、堀文学の全貌が紹介されています。
深い木立ちに囲まれた軽井沢ですが、200年前は一面の大草原だったというと意外に思われる方が多いかもしれません。1783年の浅間山大噴火で軽井沢一帯は厚い火山灰に覆われ、ほとんどの植物が一時壊滅状態に。現在の緑豊かな別荘地風景は、その後の植林事業によって築かれたものなのです。外国人が初めて避暑にやってきた120年ほど前は、樹木がまだちらほらと生えている程度。大地は、太陽の光をたっぷりと浴びた小さな草花たちの楽園でした。
軽井沢を愛する人々の心には、そんな時代の面影を漂わせながら今も可憐に咲き続ける、軽井沢ならではの山野草を慈しむ気持ちがしっかり根付いているのです。
野の花に魅せられて…
「湿地帯にはたくさんのアヤメと、とても大きな薄青のシソを見かけた。湿地帯は、全体に婦人の上靴のような黄色い花や、コルクの栓抜きに似たランの花に覆われていた。」これは明治時代『日本旅行案内』を著した、英国公使館二等書記官アーネスト・M・サトウの目に映った、明治18年当時の軽井沢風景です。
昭和初期に書かれた堀辰雄の作品『美しい村』でも、野薔薇・野苺・山葡萄・アカシア・躑躅・黄いろいフランス菊…など、主人公が逍遥する旧軽井沢一帯の植物が、重要なアクセントを効かせています。
小学校5年生の時に、軽井沢で疎開生活を送られた正田美智子さん、つまり現在の皇后陛下も、かつての「軽井沢風景」に心を寄せられるおひとりです。
平成14年に発表された御歌『かの町の野に もとめ見し 夕すげの 月の色して 咲きゐたりしが』は、レモンイエローの美しい花「ゆうすげ」の、軽井沢でのその後の様子に想いを馳せて詠まれたもの。
その翌年、13年ぶりに訪れた軽井沢町植物園で、自然のままに咲き誇る姿に安堵され、「末永く残されるように…」と、30年間皇居で大切に育てられてきた種子12,000粒を、名誉園長・佐藤邦雄氏に託されました。
軽井沢町植物園
1975年開園。自生する高等植物1,000余種といわれる軽井沢は、昔から植物学者にとって貴重な研究調査の場でした。園内では、周辺の山林原野で蒐集されたものや園芸種も含め、約145科1,600余種を見ることができます。
■TEL.0267-48-3337 ■入園料/100円 ■開園時間/9:00〜16:30
参考文献/軽井沢町植物園の花(佐藤邦雄監修)・花のおもしろフィールド図鑑(ピッキオ編著)
取材協力:軽井沢町植物園
写真協力:小川慶喜・大林博美