風立ちぬ、いざ生きめやも 軽井沢を愛した堀辰雄

堀辰雄は軽井沢と最もつながりの深い文学者として知られている。2013年夏、宮崎駿監督『風立ちぬ』の封切をきっかけに、堀文学の精神性が再び脚光を浴びている
が、高原の風景をモチーフにした小川のせせらぎのように繊細な文体は、70年以上の時を経た現在でも、少しも色あせることなく人々を魅了する。
軽井沢探訪 堀辰雄

軽井沢を文学人生の舞台に
明治37年、東京麹町に生まれた堀辰雄は、2歳で母・志氣とともに向島に移り住み、下町の環境に育まれて大人になった。
大正12年、中学の校長の紹介で室生犀星と知り合った辰雄は、その夏、彼に誘われて初めて軽井沢を訪れている。大正末期の軽井沢は、外国人を中心に5千人もの避暑客が集う国際リゾートそのもの。19歳の辰雄はたちまちその光景に心奪われ、「一日ぢゅう彷徨ろついている。みんな、まるで活動写真のようなものだ、道で出遭うものは、異人さんたちと異国語ばつかりだ…」と、興奮した口調で親友の神西清に手紙を送っている。
10日ほど避暑を満喫して東京へ戻った辰雄を、不運なことに関東大震災が襲う。本人は九死に一生を得たものの、誰よりも大切な母を失ってしまうのである。

 

生涯の父、芥川龍之介との出会い
同じ大正12年の秋、辰雄は犀星の紹介で、生涯文学の師と慕うことになる芥川龍之介に出会う。憧れの龍之介を介して歌人片山廣子とその娘總子、萩原朔太郎といった華麗な交際に加わり、それがのち
に『聖家族』『ルウベンスの偽画』『菜穂子』といった作品へと昇華していくのだが、23歳の時、その精神的な父と仰いだ龍之介が自殺を遂げたことで、辰雄は再び激しい衝撃を受けることになる。
血縁への過剰な気遣いが芥川の精神を切り裂いたと考えた辰雄は、同じ気質を持つ者として、それとは正反対の方法を選びとることで、人生を生き抜こうと決意した。震災で母との糸が断ち切られたことも手伝って、濃い人間関係にがんじがらめの下町社会ときっぱり縁を切り、そこから最も遠い場所として日本の中の外国、軽井沢を文学人生の舞台に選んだのである。

 

死の影が生の美しさを照らす『風立ちぬ』
小説『風立ちぬ』は、胸を病み軽井沢に静養に来ていた矢野綾子との出会いから婚約、富士見高原療養所での半年にわたるふたりの入院生活、綾子を失ってからの軽井沢での様子を題材にした作品で、風、雲、雪、植物といった辰雄が好んですくい上げる自然が宝石のごとく散りばめられ、フランス近代派の影響を受けた美意識あふれる文体が全編を貫いている。
「風立ちぬ、いざ生きめやも。」風が吹いてきた、さあ、生きなければ…フランスの詩人ヴァレリーの『海辺の墓地』から引いたこの一節は、身近な人を次々に失いながらも、自らは決して死を選ばないと心に誓った辰雄が、しぼり出すように生み出したフレーズなのである。
死を透過しながら現世の真の美しさに気づく主人公のせつない心情は、戦争が支配する不穏な時代の中で、極上のロマンを渇望する読者に熱狂的な支持を受け、昭和の忘れえぬ名作となった。

軽井沢探訪 堀辰雄

堀辰雄文学記念館
堀辰雄が晩年の日々を送った追分の旧宅に設けられた文学記念館。関連図書や資料が読める閲覧室のほか、展示棟、書庫、文学などが点在している。

 

軽井沢高原文庫
堀辰雄はじめ室生犀星・立原道造・有島武郎・中村真一郎ら、軽井沢ゆかりの文学者の業績を紹介する文学館。塩沢湖畔の軽井沢タリアセンに隣接。

 

 

【参考文献】
堀辰雄全集第一巻『風立ちぬ』堀辰雄(新潮社)/『堀辰雄文学記念館常設展示図録』(堀辰雄文学記念館)/『芥川・堀・立原の文学と生』中村真一郎(新潮選書)/『火の山の物語-わが回想の軽井沢』中村真一郎(筑摩書房)/名作旅訳文庫5『風立ちぬ』堀辰雄(JTB パブリッシング)