いつもそこに音楽があった… 避暑地軽井沢と音楽

避暑地として歩んだ軽井沢の歴史の中で《音楽》は、宣教師たちの教会文化として、あるいは別荘文化の中の教養として、欠かせないもののひとつでした。
そして〝日本の中の外国〟という特殊な地域性から、外国人音楽家にまつわる数々のエピソードも培ってきました。そんな軽井沢と音楽のお話を、時の流れの中にひも解いてみることにしましょう。

 

photo音楽文化の夜明けの舞台に
1921(大正10)年、《芸術教育夏季講習会》と銘打った夏季セミナーが、星野温泉で開かれました。「自由教育協会」が主催したこの講習会には、島崎藤村・北原白秋・内村鑑三ら当代きっての講師陣が名を連ね、材木小屋を改築した素朴な教室は補助椅子が出るほどの盛況ぶり。音楽の講義を担当したのは作曲家弘田龍太郎で、観念の押し付けに陥っていた唱歌から脱却し、子供の自由な表現を引き出す〝童謡〟を提唱、その後の教育界に大きな影響を与えました。

 

1957(昭和32)年、同じ星野温泉で開かれたのが、音楽評論家吉田秀和を所長に柴田南雄・黛敏郎・諸井誠ら新進作曲家たちが結成した「二十世紀現代音楽研究所」主催の《軽井沢現代音楽祭》でした。演奏会やコンクールで構成されたこのセミナーには、学生を中心に300人もの聴衆が押しかけ、海外の前衛的現代音楽が紹介される好機となりました。宴会用の大広間の舞台には、管弦楽やピアノによる小編成のアンサンブルが並び、指揮は斉藤秀雄が担当、愛弟子の小澤征爾が助手をつとめたことも語り継がれています。

 


軽井沢を通り過ぎた外国人音楽家

20世紀のフランスを代表する作曲家オリヴィエ・メシアンが軽井沢を訪れたのは1962(昭和37)年のことでした。ウグイス・クロツグミ・オオルリなど26種類にも及ぶ野鳥の鳴き声を、4日間にわたって朝4時から精力的に採譜する姿に、案内役をつとめた野鳥研究家星野嘉助も、「野鳥が自然界で合唱しているそのものが、譜に採られていく」と舌を巻きました。メシアンは鳥の鳴き声を独特の音楽語法に昇華させ、ピアノ曲「鳥のカタログ」「異国の鳥たち」「鳥たちの目覚め」フルート曲「黒つぐみ」など多数の作品を残しています。

 

創作の歓びに満ちた来訪とは対象的に、戦時下の軽井沢で過酷な耐乏生活を強いられた音楽家たちもいました。ヨーロッパ最大級のピアニストとして知られ、ベルリン音楽大学教授であり指揮者としても活躍したレオニード・クロイツァーは、1933年ナチスによる公職追放を受け、当時まだユダヤ系音楽家に友好的だった日本に逃れることを決意しました。東京音楽学校(現・東京芸術大学)に迎えられたものの、戦争の激化にともなって、1944(昭和19)年から終戦までの日々を外国人疎開指定地だった軽井沢で過ごすことになったのです。後進の優秀なピアニストに贈られるクロイツァー賞に名を残し、生涯日本で暮らした栄光の音楽家も、政治に翻弄された暗黒の時代をくぐり抜けたひとりでした。

 

昭和19年当時の軽井沢には、野球のスタルヒンや画家のブブノワ夫妻らとともに、クロイツァーと並び称されるピアノ界の巨星レオ・シロタも滞在していました。東方ユダヤ人としてウクライナに生まれ、ヨーロッパで活躍の後、作曲家山田耕筰から東京音楽学校に招聘された彼は、戦前は家族とともに軽井沢で優雅な避暑生活を送っていました。その同じ場所で、戦争末期の一時期辛い拘束生活を余儀なくされ、戦後は無念を抱きつつ米国に渡りましたが、温厚な人柄の師を慕う大勢の日本の弟子たちの協力で、最晩年に悲願の再来日を果たしています。


音楽の殿堂と歩む21世紀

終戦直前そのレオ・シロタのもとに、疎開先の上諏訪(長野県)から苦労して汽車を乗り継ぎ、レッスンに通う14歳の少女がいました。ピアニストの松原緑さんです。60年後、彼女は夫であるソニー名誉会長大賀典雄氏と退職金の使い道を話し合いながら、ふとその遠い日に想いを馳せ、こう呟きました。「音楽が似合う軽井沢には上質なホールが必要よ」。この言葉をきっかけに、大賀氏の音に対する理想を実現した《軽井沢大賀ホール》が誕生することになったのです。

 

そして、世界を舞台に活躍を続けてきた大賀氏の、真の理想はその先に控えています。「ホールがひとつ出来ただけではだめなのです。ザルツブルグのように、街中に音楽があふれ、人々の生活の中に本物の音楽が浸透しなくては」。〝諍いのない音楽の世界で身を立てたい〟と声楽家への道を誓った若き日の大賀氏の夢が、数々の時代を見つめた軽井沢で、この春、平和な音色となって響き渡ります。