軽井沢には落葉松がお似合い

新緑の瑞々しい緑、黄金色に輝く紅葉、凛とした冬木立…。「落葉松」は軽井沢を洋風リゾートに染めあげていった立役者ともいえる美しい木で、針葉樹には珍しく秋になると紅葉し落葉するのが特徴です。明治初期の軽井沢は、江戸時代に起きた浅間山大噴火の影響でまだ背の高い樹木がほとんど無く、小花咲き乱れる一面の大草原でした。そこにひとりの豪快な植林王が現れて…。現在の豊かな森へと繋がる軽井沢と落葉松の深い縁えにしを紐解いてみましょう。
 
開拓者たちが創った「軽井沢の森」
 
落葉松明治初期、避暑地の片鱗すらない軽井沢の原野を購入し、膨大な数の落葉松を植えた人物がいました。その名は雨宮敬次郎。近代化のうねりの中で養蚕・鉄道・製鉄など多分野で活躍した大実業家です。いささか移り気の感のある事業歴の中で、軽井沢の開墾だけは全く別の意味を持っていた、と雨宮は述懐しています。

「私はその時分肺結核で血を吐いていたから、とても長くは生きられないと考えていた。〝せめてこの地に自分の墓場を残しておきたい〞という精神で開墾を始めた。決して金を儲けて栄華をしたいという考えからではなかった」。かつてアメリカ大陸横断旅行で目の当たりにした、不毛の地が開墾によって見事に生まれ変わる様子に衝撃を受けた雨宮は、浅間山の裾野に近代農場を経営しようと大志を抱きました。ワインのための葡萄栽培、黒麦生産など次々に挑戦しましたが、気候の厳しさは想像以上。紆余曲折の末、最後に成功したのが落葉松や赤松の植林だったのです。
「(落葉松の)性質は檜と杉の間の良材で、この土地の風土に最適で成長が早い。私自身の健康のためにも最適であった。毎年30万、40万本ずつ植えていったのが遂に700万本になった。私は木を植えるという、金の貯蓄ではなく木の貯蓄をやっている。生前の貯蓄ではなく死後のために貯蓄をやっているのだ」この気骨ある哲学が、後世の軽井沢に美しい森を誕生させたというわけです。
大正時代にはさらに新たな開拓者が登場しました。貿易商社野澤組の野澤源次郎で、彼も転地療養ですっかり健康を取り戻したことから、軽井沢を〝天下の健康保養地〞として広めようと、当時の特権階級に向けた洋風別荘地を開発しました。六本辻を核に「落葉松通り」「柏通り」「楓通り」「銀杏通り」など放射状の道路を整備し、200万本にのぼる植林を施して高級リゾートらしい美的景観を創り上げました。
 
詩人を魅了した落葉松林
 
落葉松は軽井沢を舞台にした文学作品にもしばしば登場します。中でも最も有名なのが、北原白秋の詩「落葉松」でしょう。大正10年、37歳の白秋は菊子夫人と軽井沢に滞在し朝に夕に落葉松林を散策、長く途絶えていた詩作を復活させました。同年11月の『明星』に発表されたこの詩は、彼の代表作のひとつとなりました。
日本中で歌い継がれている声楽の名曲「落葉松」は、軽井沢をこよなく愛した文学者 野上彰が昭和22年に書いた詩に、作曲家 小林秀雄が曲を付けたもの。たまたまラジオでこの詩を知り大きな感銘を受けた小林が作曲の承諾を得ようとしたところ、わずか1週間前に野上が亡くなっていたことを知ります。秀麗な落葉松にせつなさを見た美しい詩と、天国の詩人に捧げられた気品あふれるメロディーが印象的です。

「落葉松」北原白秋