100年前、軽井沢は「日本の西洋」だった…

宣教師ショーが残したもの

軽井沢は、西洋人によって拓かれた国内屈指の別荘地として長い歴史を育んできました。そこに一貫して流れる「娯楽を人に求めずして、自然に求めよ」の精神は、外国人として初めて軽井沢に別荘を持ち、日本人に避暑の概念を教えた宣教師ショーの生き方そのものでもありました。

 

 

photo

「(軽井沢は)海抜3,270フィートという高地に位置しているので夏期は大変涼しく、さらに蚊がいないことも平野部の不快な暑熱を避ける場所として推薦で きるもう一つの理由だ」これは今から120年前、英国公使館二等書記官だった英国人アーネスト・M・サトウが書いた外国人向けガイドブックの一節です。明 治19(1886)年、英国公使館付牧師アレキサンダー・クロフト・ショー(1846〜1902)と、東京帝国大学(現・東京大学)英語教師ジェームズ・メイン・ディクソン(1856〜1933)のふたりも、蚊のいない避暑地への期待に胸躍らせて峠を越えたことでしょう。

軽井沢が現在のような森に囲まれた別荘地風景になるのは、大正時代の植林が功を奏するずっと先のこと。天明の浅間山大噴火で植物が壊滅し、明治時代はまだ木も少なく、野の花が咲き乱れる草原に爽やかな風が吹きわたっていました。スコットランド出身のディクソンも、カナダ出身のショーも、英語で「ムーア」と表現される荒涼とした大地の風景に大いに郷愁をそそられたのです。江戸時代には中山道の要衝として賑わった軽井沢宿も、明治維新とともに交通手段が様変わり、明治10年代には往来する人も激減し、すっかりさびれた状況でした。

新婚のディクソンはそんな街道沿いの旅籠に部屋を借り、米国に渡るまでの5年間の夏を過ごし、旅籠の主人たちに洋式ホテル開業に向けて西洋指南をしました。一方のショーは軽井沢宿の一番奥、ニ手橋手前の小高い大塚山(だいづかやま)の上に家を建て、妻や子供たちと健康的で敬虔な別荘ライフを謳歌したのです。大執事と呼ばれる高い地位にあった彼は誠実で人望も厚く、彼から避暑地の魅力を伝え聞いた当時の外国要人たちが、続々と軽井沢にやってくるようになりました。初期の軽井沢を占めた宣教師や英語教師たちはキリスト教を旨とし、健康的にスポーツや音楽を楽しみ、軽井沢の人々に対しても「自然を愛し簡素な生活をするように」と熱心に説きました。「聖地・軽井沢」のイメージはまさにこの時代に形作られたといえるでしょう。

明治後期には外国人相手の商店が次々に出張店を構え、旧街道は横文字の看板ひしめくショッピングストリートに様変り、信州のピンポイントに『日本の西洋』が出現しました。 

明治35(1902)年、56歳でこの世を去ったショーは東京青山墓地に埋葬されました。大正10年にマリーアン夫人が帰国するまで使われた大塚山の別荘は、一旦は取り壊されたものの地元の人々の運動によって文化財として甦り、昭和61(1986)年「ショーハウス」としてショー記念礼拝堂隣に移転復元さ れました。2000年からは毎年8月1日にショーの功績を称える『ショー祭』も開催され、今なお軽井沢の人々に「恩父」と慕われて続けています。

参考文献「明治日本旅行案内」(平凡社)
アーネスト・M・サトウ(著)
庄田 元男(訳)