軽井沢を味わう珠玉の一冊

『軽井沢』幻想的な霧がたちこめるこの神聖な高原は、昔から多くの文人たちの心を惹きつけてきました。彼らは静謐に流れる時間の中で創作意欲をかきたてられ、ロマンチックな風景をたびたび作品にも登場させました。軽井沢の随所にたたずむ文学碑や作家たちが散策した小径をたどりながら、軽井沢文学の魅力をじっくりと味わってみることにしましょう。

 

 

photo

「馬をさへ ながむる雪の あした哉」。旅人や荷馬を眺める芭蕉の姿が早朝の雪景色に浮かんできそうなこの句は、貞享元年、41歳の松尾芭蕉が旅の途中に詠んだもの。江戸時代の中山道・軽井沢宿、今は旧軽銀座と呼ばれる通りの東の端「ショー記念礼拝堂」の斜め向いに立つこの句碑は、蕉門の俳人・小林玉蓬によって天保14年に建立されました。

 

その先の二手橋を渡り、流れを少しさかのぼった矢ヶ崎川沿いには、室生犀星の『我は張り詰めたる氷を愛 す…』(詩集「鶴」より)の詩碑が建っています。犀星は大正から昭和中期にかけて詩人・作家として活躍、昭和31年から翌年にかけて東京新聞紙上に連載された自伝的長編小説『杏っ子』の中盤部分は、大塚山(軽井沢会テニスコートの裏手)の麓に今も残る軽井沢の別荘での疎開生活が舞台となっています。犀星は各地から寄せられる文学碑建設の申し出を断り続けた末、いつか不本意な物が出来上るよりは「他人に迷惑をかけることなく自分のちからで築建したい」(「犀星 軽井沢」)と、生涯最も慣れ親しんだ軽井沢に詩碑を建てる決心をしました。いかめしさを感じさせないようにと、碑面は石垣の中に奥ゆかしくはめ込まれ、小さな前庭といった趣の川原に立つ一対の俑人像の下には愛用の遺品も納められました。「不意の雨には雨やどりができるように」とまで心遣いを見せたその場所 は、文学碑にありがちな冷たさとは無縁の、文豪の心が生きる名所となっています。

 

旧軽銀座通りと並行する一本北側の小径「水車の道」 は、堀辰雄の小説『美しい村』や『風立ちぬ』にもたびたび登場します。チェコ出身の建築家アントニン・レイモンドが設計した聖パウロ・カトリック教会もこの通りにあり、堀辰雄が親友・立原道造の死を追悼して書いた短編『木の十字架』の舞台としても知られています。

 

ここから三笠通りに出て 落葉松並木を進むと、三笠別荘地右手の小高い場所に「有島武郎終焉地碑」がひっそりとたたずんでいます。大正12年、『生まれ出づる悩み』『或る女』など の作品で名を馳せた作家・有島武郎と人妻の婦人記者・波多野秋子による別荘での心中事件は、当時の社会に大きな衝撃を与えるとともに、まだ馴染みの薄い避暑地軽井沢の名を強く印象付ける結果にもなりました。有島家の別荘「浄月庵」があったこの場所には、弟・有島生馬の筆による終焉地碑と、武郎がスイスで知り合った少女チルダへ宛てた英文の手紙が刻まれた石碑の二つが設けられています。大正8年に書かれた短編『小さき影』は、浄月庵で過ごした夏の日を舞台に、母親を失った3人の幼い男の子を慈しむ父親の姿が描かれています。

 

かつて「沓掛宿」と呼ばれた中軽井沢。ここから国道146号線を北上した星野温泉入口右手の木立の中には、「からまつの林を過ぎて、からまつをしみじみと見き。からまつはさびしかりけり。たびゆくはさびしかりけり。」の有名な一章から始まる北原白秋の代表作『落葉松』全八章が刻まれた詩碑 が建っています。白秋は大正10年、星野温泉で開催された「芸術自由教育講習会」講師として、新婚の菊子夫人を伴ってこの地を訪れました。朝夕近くの落葉松林を散歩して生まれたというこの詩は、同年11月「明星」復刊号に発表され、安息の家庭を得た白秋がふたたび詩作の道に戻る記念碑的作品となりました。

 

浅間三宿の最後のひとつ「追分」は、堀辰雄・立原道造ら大正・昭和初期の若き文学者たちがこよなく愛した場所として有名です。大正12年、文壇の大先輩・ 室生犀星の知遇を得て初めて軽井沢を訪れた堀辰雄は異国の香りを持つ避暑地の雰囲気にすっかり魅了され、さらに帝国大学国文科に入学した大正14年には、 芥川龍之介と夢のような夏を過ごしました。昭和2年、その芥川の衝撃的な自殺に大きなショックを受けながらも、軽井沢での思い出の日々を小説『聖家族』に結実させ、文壇での地位を確固たるものとしました。その後の『風立ちぬ』を代表とする数々の名作でも、軽井沢の風土そのものが彼の作品の根底を流れる大きな要素となっていったのです。昭和26年、追分の地に新居を構えた堀辰雄は、病と闘いながらも「我々ハ《ロマン》ヲ書カネバナラヌ」と己の内に誓った熱い闘志を燃やし続けましたが、昭和29年49歳という若さでこの世を去りました。彼の死後旧宅を訪れる愛読者は後を絶たず、平成5年敷地内には記念館が建てられ、堀文学の全貌が紹介されています。