中山道浅間三宿をゆく

上州と信州の境近くに位置する軽井沢は、江戸時代、中山道をゆく旅人たちにとって重要な宿場町でした。
今の旧軽井沢銀座と通りを同じくする軽井沢宿。中軽井沢駅前の国道に沿った沓掛宿。そして北国街道と中山道が分岐する追分宿。
険しい碓氷峠を越えて信州に入った旅人は、浅間山の腰あたりに続く、いわゆる「浅間根腰」の三宿に足を休め、立ちのぼる噴煙に旅情をかみしめながら、京へ、または善光寺へ草津へとそれぞれ歩んでいったのでしょう。

 

 

photo急峻を越えてひと夜の足休め
碓氷峠の難所を越えた江戸からの旅人が、初めてわらじをぬぐのが軽井沢宿です。ここは古くから山越えの要衝として知られたところで、逆に江戸へと向かう人びとも、難所を前に、ひと息入れたのではないでしょうか。現在の旧軽井沢銀座に沿って南北6町(約654m)に、大小の旅籠や茶屋が並び、多くの人で賑わっていたようです。

しかしこの賑わいは、天明3年の浅間山大噴火、寛政年間の2度の大火を経て、徐々に下降していきます。噴火により50軒以上の建物が焼け、120軒以上が壊れたといいますから、被害の大きさは大変なものでした。

明治期になると宿駅制が廃止され、さらに碓氷新道(現在の国道18号線)が開通。碓氷峠にはアプト式の信越線が通るようになり、宿場は衰退します。国際的避暑地として脚光を浴びるのは明治も半ばになってからです。

宿場の本陣は「軽井沢ホテル」へ、旅籠「亀屋」は「万平ホテル」へ、二手橋そばの休泊茶屋「旅籠鶴屋」は「つるや旅館」へ。時代を経て、宿場町は和洋入り混じる新たな装いで、再び多くの人を受け入れるようになりました。

千年をさかのぼる古い集落
軽井沢宿から沓掛宿までは1里5町(約4.5km)。離山を眺めながら西へと進み、湯川の流れを越えて、宿場内に入ります。もともと「古宿」という佐久郡最古といわれる集落があったところで、湯川そばに建つ長倉神社は、延喜時代(901~922年)にまで歴史をさかのぼる古い神社です。 

本陣があったのは中軽井沢交差点のすぐそば。江戸降嫁の際に和宮皇女が宿泊された場所としても知られています。脇本陣は3軒あり、そのうちの「ますや」は 「枡屋本店」として近年まで営業していました。また、八十二銀行中軽井沢支店の駐車場では「脇本陣蔦屋跡」と刻まれた石碑を見ることができます。

三宿の中では規模は小さめですが、草津街道の入口に位置していたため、草津温泉往来の湯治客でも賑わいました。旧中山道をのんびり歩けば、「右くさつへ」と書かれた石仏やかわいらしい夫婦道祖神が、今なお旅情を誘います。


分去れの宿場に刻む人間模様

追分宿を西へ過ぎれば中山道と北国街道との分かれ道。交通の要衝だけあって旅籠も茶屋も多く、三宿の中でも大いに賑わった場所でした。

「飯盛女」と呼ばれる遊女を置いた旅籠の多さも特徴です。旅人だけでなく、軽井沢や佐久近辺の在郷の若者も農作業の合間にこっそり遊びに来ていたとか…。当時の馬子たちが道みちに口ずさんだ「馬子歌」に、宿場の飯盛女たちが三味線の手をつけたものは、全国の「追分節」の元祖となりました。

もっとも表の華やかさとは裏腹に、女たちの生涯は幸多いものでは決してなかったでしょう。宿場唯一の寺・泉洞寺には、ひっそりと侘しげな遊女の墓が残されています。
脇本陣兼旅籠屋だった「油屋旅館」は昭和12年に火事により消失。その後、現在の場所に再建されました。旧街道には一里塚や高札場跡、旅人を見守った石仏などが佇み、枡形の茶屋としての旧観をとどめる「つがるや」や、堀辰雄文学記念館の入り口に移された本陣の裏門が、往時の面影を今に伝えます。

さらしなは右  みよしのは左にて  月と花とを 追分の宿

宿場のはずれ、分去れの三角地帯に残る常夜燈や道しるべは、いつの世にもある人の出会いと別れのドラマを感じさせてくれるようです。

参考文献)
「カメラリポート中山道紀行」 NHK6局「中山道」制作グループ編 郷土出版社
「信州の文化シリーズ 街道と宿場」信州歴史の道研究会解説 信濃毎日新聞社
「軽井沢三宿の生んだ 追分節考」小宮山利三著 信濃教育会出版部