原野に育まれた夢と理想 ー避暑地・軽井沢を創った人々ー

宣教師A・C・ショーに見出された明治初期の軽井沢は「キツネも棲まない」と謡われた茫漠(ぼうばく)のススキ野原でした。大地は浅間山大噴火による火山灰と軽石に覆われ、主街道から外れた宿場町は衰退の一途をたどる一方。そんな山麓の地が、文化の薫り高い美しい別荘地に生まれ変わっていったのは、この地を愛した人々の熱い理想と想いがあったからでした。

旧三笠ホテル・ユニオンチャーチ・ショーハウス
 
宣教師に見出された山麓の地

英国公使館付きの宣教師A・C・ショーと東京帝国大学の英語教師J・M・ディクソンが初めて夏の軽井沢を訪れたのは明治19(1886)年。当時、中山道の宿場であった軽井沢宿は、新しく開通した国道からはずれ、通る人もまばらな寒村と化していました。浅間山麓の開拓や植林もようやく手をつけられ始めたばかり。峠を越えた2人が目にしたものは、ゆるやかな丘陵地にどこまでも広がる草野原だったはずです。
荒涼とした山麓の風景に、故郷に似た雰囲気を感じた2人は初めての滞在地を大いに気にいり、以来、毎年の夏を軽井沢で過ごすことになります。やがて彼らから避暑地の魅力を伝え聞いた当時の外国要人たちも次々と軽井沢を訪れました。自然に囲まれた静謐な時間。日本各地で布教に務めていた外国人宣教師や招致教員にとって、軽井沢での夏の生活は、ふるさとの言葉や習慣のまま過ごせる貴重なひと時だったことでしょう。
 
上流階級の華やかな社交場が登場

やがて、時の海軍大佐が日本人として初めて別荘を建てたのをきっかけに、海外経験のある日本人有識者が軽井沢へ目を向けるようになります。明治39(1906)年、実業家の山本直良が三笠山のふもとに本格的な西洋ホテルを開業したのは、外国人やトップクラスの日本人の滞在を見込んだためでした。
今も国の重要文化財として姿を留める三笠ホテルは、旧軽井沢ロータリーから北西に向かう〝三笠通り〞にあります。木造二階建てに八角の塔屋、壁面に白くモダンな装飾をほどこされた建物は、明治時代に日本人の手で建てられたとは思えないほど、クラシカルな西欧の香りを漂わせています。広いフロアには英国製のカーペットが敷かれ、天井にはきらびやかに輝くガス灯のシャンデリア。訪れる人にふさわしく、当時の最先端のインテリアや設備がふんだんに取り入れられたホテルは、開業まもない頃から財界人や文化人に愛され、「軽井沢の鹿鳴館」と謳われる社交場になったのです。
 
別荘地に吹くアカデミズムの風

大正期に入ると、リゾートとして軽井沢を楽しむライフスタイルが日本人の上流階級に定着していきます。別荘地では週末ごとにパーティーや音楽会、野外劇が開かれ、夏の間中、木陰にさんざめく笑い声が響きました。テニスや乗馬などを楽しむ人も増え、別荘に滞在する日本人と外国人の交流も深まっていきます。大正5(1916)年とその翌年には、避暑中の外国人を講師として英語講習会も開かれました。
文学者や教育者が多く集まるこの地で、好学の士が互いに研鑽するようになったのは当然の流れだったのかもしれません。当時の外務大臣、後藤新平男爵の呼びかけに応じ、大正7(1918)年には「軽井沢通俗夏期大学」が開設されました。学長は、後藤と交流の深かった東京女子大初代学長の新渡戸稲造が務めています。
アカデミズムと実業の交流を目指し、あえて〝通俗〞と名付けられた夏の学び舎では、宗教や経済政策、科学の話から英語講座まで、幅広い分野での講演が行われました。気鋭の研究者や実業者による数々の講演は、避暑地の人々に新しい学問の喜びを提供しただけでなく、中央の有識者の目を軽井沢に向けさせるきっかけともなったのです。
質素な生活を好む外国人避暑客の中には、ブルジョア的な大正期の軽井沢を敬遠する人もいましたが、自然の中に娯楽を求める宣教師たちのライフスタイルは、ここで過ごす日本人に確実に踏襲されていきました。爽やかで健康的な高原保養地のイメージは、別荘地開拓の流れの中で紆余曲折しながらも、多くの人々の軽井沢にかける愛情に支えられて、現在までつながっています。

参考文献/「軽井沢物語」(宮原安春著)講談社、「避暑地 軽井沢」(小林收著)櫟