言葉が紡ぐ避暑地の情景 「軽井沢」を詠う

噴火口からゆるやかに尾根をつなげる堂々たる浅間の山塊。麓を黄金色に彩る落葉松の林。梢を渡る風の音や流れるせせらぎはまるで優雅な楽曲のようで、軽井沢の情景は詩情と変化に満ちています。古道をたどった旅人も、別荘に遊んだ明治大正の文人たちも、美しく広大な自然を愛し、言葉にのせてその感動を紡いできました。今回は軽井沢の中で歌や句に詠まれ残された、人びとのこの地への想いをご紹介します。

文豪の碑

旅の歴史を刻む碓氷の峠
日本武尊(やまとたけるのみこと)が碓氷の坂に弟橘姫(おとたちばなひめ)を想い詠った昔から、軽井沢には人びとの往来の記録が残っています。万葉時代、下野(しもつけ)の国からはるか九州へと赴いた旅人も、愛する家族を心に残しながら、碓氷峠を越えたことでしょう。
俳人・松尾芭蕉が信濃へと赴き、「更科紀行」を記したのは元禄元(1688)年のこと。木曾路を抜けて善光寺を詣で、江戸へと戻る旅路で、中山道の宿場であった軽井沢を歩いています。
 
馬をさへ なかむる雪の あした哉 芭蕉

宿からの眺めをユーモラスに謳ったこの句の碑は、芭蕉の没後150年に当たる天保14(1843)年、門人の手で旧軽井沢北の大宮橋たもとに建てられました。当時は宿場の江戸側出入口にあたり、枡形などが設けられた重要な場所だったのです。
 
女流歌人の愛した山あいの湯
明治大正の世となると、軽井沢は避暑地としての新しい顔を持つようになります。外国人宣教師らが簡素な別荘を建て、夏を過ごした山麓の地は、やがて国内の要人たちの特別な場所となったのです。
当時、歌壇に華やかな話題を振りまいていた与謝野晶子も、軽井沢をこよなく愛したひとりです。彼女は夫・鉄幹と明星館(現・星野温泉)を訪れ、自然と心情とを重ね合わせた名歌を残しています。
 
うら悲し北の信濃の高原の
  明星の湯にあることもまた
月見草近きところに花咲きて
  待つ人のある夜のここちする
 
星野温泉敷地内に湧く明星池のほとりには、与謝野夫妻の歌がそれぞれの自筆で残されています。どこか寂しさを漂わせる明星館での歌とは異なり、「鴛鴦(えんおう)の歌碑」と呼ばれるその碑に残るのは、共に軽井沢滞在中に詠まれた、秋の日の明るく力強い情景です。
 
北原白秋詩碑
 
創作の源泉となった風景
軽井沢の代表的なイメージをつくりあげた北原白秋の「落葉松」は、大正10(1921)年11月の「明星」誌上に発表されました。一時詩作の途絶えていた白秋にとって、文壇への復活の意味も持つ象徴的な作品です。詩碑が建つのは星野温泉の入口。浅間の山容にも似た巨岩の碑の傍らには、落葉松の大木がつき従うかのような趣で立っています。
室生犀星や津村信夫、川端康成ら、軽井沢で交流を深めた作家たちも少なくなかったようです。のちに追分を生涯の居と定めた堀辰雄もその一人。彼は「美しい村」をはじめ、多くの詩や小説の題材をこの地に求めました。
立原道造は昭和9(1934)年、師である堀辰雄に勧められて、初めて追分を訪れています。24年という短い生涯を自覚していたのか、以来、熱心に軽井沢を訪れ、「萱草に寄す」「暁と夕の詩」などの優れた詩集を生み出しました。
代表作「のちのおもひに」の冒頭部分を刻んだ詩碑は平成5(1993)年、塩沢湖畔の軽井沢高原文庫の前庭に建てられました。また、追分公民館の玄関脇の壁には、「村はずれの歌」の一遍と共にレリーフが彫られ、幼さの残る詩人の表情を浮かび上がらせています。
道造の詩に謳われたように、歌人、作家たちは創作の源を求め、生業の場に戻ってもなお、山の麓の村へと幾たびも想いを馳せたにちがいありません。

立原道造詩碑

参考文献/「軽井沢文学散歩」 軽井沢町編 軽井沢観光協会発行

 

 

軽井沢ー 歴史的建造物を巡る[2] 時代を映した窓辺

建築には時代の意識が反映されるといいます。意匠の違い、様式の違いを見る面白さはもとより、そこを行き過ぎた人びとの生活の匂いや想いを感じられるのも、古い建物を巡る醍醐味です。軽井沢には、移り行く時代の中で、少しずつ場所や姿を変えながらも、歴史を見つめ続けてきた建物が多く保存されています。明治、大正、昭和。扉の向こうに今も漂う、古き良き日の空気を感じに出かけましょう。
(旧)軽井沢駅舎記念館

市村記念館・明治四十四年館貴賓客を迎えた表玄関

長野新幹線軽井沢駅の北口を降りてすぐ、左手に佇む赤い屋根の建物が、「(旧)軽井沢駅舎記念館」です。直江津から軽井沢までの官営鉄道が開通し、この場所に初めて駅ができたのは明治21(1888)年のこと。ちょうど軽井沢が避暑地として、在日の宣教師たちの間に広まり始めた頃と前後します。上下線で1日3本の往復だったそうですから、列車はのんびりと開拓途中の原野を走っていたのでしょう。
その後、信越本線の駅として皇族をはじめ多くの政財界人や外国の要人たちが訪れるようになり、明治43(1910)年、駅舎の大改築が行われることになりました。1階建ての小さな駅舎が、いかにも欧風情緒に満ちた下見板張り白ペンキ塗りの堂々たる建物に生まれ変わったのです。
現在の記念館は、新幹線駅ができる時に取り壊された当時の建物を再築保存したもの。1階では、信越本線や草軽軽便鉄道に関する鉄道資料を、2階では当時の様子を再現した貴賓室を見ることができます。
 
歴史を動かす拠点として

離山の麓には、近衛文麿元首相が大正期に使っていた別荘が、「市村記念館」と名を変えて残されています。近衛公は短い避暑の間に「軽井沢ゴルフ倶楽部」を創設し、この別荘をクラブハウスとしても使っていました。建築は、当時の流行の最先端をいく〝あめりか屋〞によるもの。東に応接室、西に居室と食堂、2階には畳敷きの座敷もあるハイカラなスタイルです。首相のもとを訪れる多くの要人文化人も、ここでくつろぎ、日本の現状や将来について激論を戦わせたのでしょう。応接室の床には、今でも近衛公のゴルフシューズの跡がかすかに残り、当時の日本を動かしていた男たちの息吹を、身近に感じることができます。
別荘は昭和7(1932)年、早稲田大学の教授であった市村今朝蔵氏と妻・きよじ氏に譲られたのち、南原に移築。夫妻は、この建物を拠点に南原別荘地開発を行い、訪れる人びとの文化向上にも力を尽くしています。その後、市村家から軽井沢町に寄贈され、現在の場所に移築復元されました。
 
建築物保存の想いが集結

昨年5月、国の登録有形文化財となった旧軽井沢郵便局舎は、「明治四十四年館」の名で、軽井沢タリアセン内に移築復元されています。もともとは旧軽井沢の目抜き通りにあり、昭和46(1971)年からは町の観光会館として使われていました。木造2階建て、薄いブルーの外壁が目を引く、美しい洋風建築です。
この建物が最初に建てられた明治44(1911)年当時、郵便局は、軽井沢の別荘に滞在する人々にとって外部と連絡を取る大切な窓口でした。海の向こうにいる家族や都市の知り合いに便りを届けようと、自然と多くの人が集まり、社交の場となったのも当然のことだったでしょう。老朽化にともない、壊される運命だった建物を、多くの人が惜しみ、保存運動が展開されたのも、そうした背景があったからこそ。この時、保存運動の主体となった「軽井沢別荘建築保存調査会」は、後に軽井沢ナショナルトラストとして、現在も歴史的建築物の調査、保存を進めています。

 

軽井沢ー歴史的建造物を巡る[1]作家たちの残像

高原の避暑地として見出されてから一世紀余、軽井沢は数多くの作家や詩人たちに愛されるとともに、その作品の舞台となってきました。林の中の小径を注意深くたどれば、ここで人生の一時期を過ごした文人たちの、思索のあとを今も見ることができます。名作が生み出された別荘のたたずまいに、発想の源を知ることができるかもしれません。

旧朝吹山荘「睡鳩荘(すいきゅうそう)」
 
2008年夏、フランス文学者・朝吹登水子さんの別荘が〝軽井沢タリアセン〞に移築、公開されました。「睡鳩荘(すいきゅうそう)」と呼ばれたレンガ色の建物は、父親の朝吹常吉氏が親交の深かったW.M.ヴォーリズに依頼し、1931(昭和6)年に新築したものです。事業家として世界を駆け、家庭にもグローバルな視点を入れた氏の居宅らしく、1階にサロンを広く取った西欧風の造り。当時ヴォーリズが多く手がけた質素な山荘とはまた別の、新たな魅力を感じることができます。
旧軽井沢にあった当時、朝吹家の人びとはこの別荘に国内外の友人を招き、シャンパンなどを抜いて、避暑地の夕べを楽しんだのでしょう。母親の磯子さんが吟味した家具や登水子さん自身がフランスで見立てたカーテンなど、想い出のインテリアは今も残され、訪れる人に往時を彷彿とさせます。
「わが家には東西さまざまな様式のものがあるわけだが、それらの家具が一つの雰囲気を醸し出してくれれば、それが私の個性というわけだ」(朝吹登水子著『豊かに生きる』97頁)
ボーヴォワールやサガンと親しく交流し、日本とフランスの両文化の中で暮らしてきた登水子さん。生涯かけて豊かな精神生活を追い求めた彼女の軌跡は、その別荘で今も垣間見ることができるのです。
 
朝吹邸が軽井沢の異国文化と上流階級の華やかさの象徴であるなら、矢ヶ崎川に近い室生犀星旧居は、大正から昭和初期の文壇を思い、心静かに留まることのできる場所です。『抒情小曲集』『あにいもうと』など詩や小説の世界で活躍した室生犀星は、1920(大正9)年、31歳で初めて軽井沢を訪れます。この夏の想い出がよほど印象深かったのでしょう、以来、彼は毎年この地を訪れ、萩原朔太郎や芥川龍之介、松村みね子らと交流を深めました。
旧居は1931(昭和6)年、軽井沢と東京を往復する生活の中で建てられたものです。木立の中にひっそりとたたずむ平屋の日本家屋は生前のあるじを偲ぶように簡素ですが、この座敷に津村信夫、立原道造、志賀直哉ら往年の若き文人たちが訪れ、創作意欲を高め合っていたと思うと、静謐さの中から当時の熱気が立ち返ってくるかのようです。
犀星に誘われ、軽井沢を訪れるようになった堀辰雄も、避暑地の自然に惹かれたひとりでした。彼は『ルウベンスの偽画』『菜穂子』など軽井沢を舞台にした小説を多く発表していますが、代表作は青年と少女の淡い恋模様を描いた『美しい村』でしょう。アカシアの小径や流れる小川、点在するヴィラなど、繰り返し登場する情景が物語に瑞々しさを加え、また、いかに堀が軽井沢を愛したかを伝えています。
堀辰雄山荘として〝軽井沢高原文庫〞に移築・保存されている建物は、旧軽井沢に在ったサナトリウムの奥で1941(昭和16)年から4年間、多恵子夫人と共に過ごした別荘。堀はその後、追分にも家を求めており、終焉を看取ったこちらの家は〝堀辰雄文学記念館〞として油屋旅館のそばにその姿を残しています。
塩沢湖周辺には、ほかに有島武郎別荘・浄月庵や野上弥生子の書斎も移されています。
三笠から移築された浄月庵は、彼が波多野秋子との情死の場所として選んだことでも有名です。現在は記念館として貴重な手書き原稿や初版本を保存・展示。ショーケースの中には今も、当時の墨の跡を残す原稿用紙が並べられ、作家の面影を思い起こさせます。
浄月庵から道を挟んで建つ茅葺きの庵は、昭和を代表する女流作家・野上弥生子の書斎。1933(昭和8)年、北軽井沢に茶室を兼ねた簡素な書斎を建てて以来、春から秋にかけての長い期間を、野上はここで過ごしました。高浜虚子と月を眺めながら「ホトトギス」の話に興じたというのもこの書斎だったそうです

軽井沢 文豪の別荘

 

原野に育まれた夢と理想 ー避暑地・軽井沢を創った人々ー

宣教師A・C・ショーに見出された明治初期の軽井沢は「キツネも棲まない」と謡われた茫漠(ぼうばく)のススキ野原でした。大地は浅間山大噴火による火山灰と軽石に覆われ、主街道から外れた宿場町は衰退の一途をたどる一方。そんな山麓の地が、文化の薫り高い美しい別荘地に生まれ変わっていったのは、この地を愛した人々の熱い理想と想いがあったからでした。

旧三笠ホテル・ユニオンチャーチ・ショーハウス
 
宣教師に見出された山麓の地

英国公使館付きの宣教師A・C・ショーと東京帝国大学の英語教師J・M・ディクソンが初めて夏の軽井沢を訪れたのは明治19(1886)年。当時、中山道の宿場であった軽井沢宿は、新しく開通した国道からはずれ、通る人もまばらな寒村と化していました。浅間山麓の開拓や植林もようやく手をつけられ始めたばかり。峠を越えた2人が目にしたものは、ゆるやかな丘陵地にどこまでも広がる草野原だったはずです。
荒涼とした山麓の風景に、故郷に似た雰囲気を感じた2人は初めての滞在地を大いに気にいり、以来、毎年の夏を軽井沢で過ごすことになります。やがて彼らから避暑地の魅力を伝え聞いた当時の外国要人たちも次々と軽井沢を訪れました。自然に囲まれた静謐な時間。日本各地で布教に務めていた外国人宣教師や招致教員にとって、軽井沢での夏の生活は、ふるさとの言葉や習慣のまま過ごせる貴重なひと時だったことでしょう。
 
上流階級の華やかな社交場が登場

やがて、時の海軍大佐が日本人として初めて別荘を建てたのをきっかけに、海外経験のある日本人有識者が軽井沢へ目を向けるようになります。明治39(1906)年、実業家の山本直良が三笠山のふもとに本格的な西洋ホテルを開業したのは、外国人やトップクラスの日本人の滞在を見込んだためでした。
今も国の重要文化財として姿を留める三笠ホテルは、旧軽井沢ロータリーから北西に向かう〝三笠通り〞にあります。木造二階建てに八角の塔屋、壁面に白くモダンな装飾をほどこされた建物は、明治時代に日本人の手で建てられたとは思えないほど、クラシカルな西欧の香りを漂わせています。広いフロアには英国製のカーペットが敷かれ、天井にはきらびやかに輝くガス灯のシャンデリア。訪れる人にふさわしく、当時の最先端のインテリアや設備がふんだんに取り入れられたホテルは、開業まもない頃から財界人や文化人に愛され、「軽井沢の鹿鳴館」と謳われる社交場になったのです。
 
別荘地に吹くアカデミズムの風

大正期に入ると、リゾートとして軽井沢を楽しむライフスタイルが日本人の上流階級に定着していきます。別荘地では週末ごとにパーティーや音楽会、野外劇が開かれ、夏の間中、木陰にさんざめく笑い声が響きました。テニスや乗馬などを楽しむ人も増え、別荘に滞在する日本人と外国人の交流も深まっていきます。大正5(1916)年とその翌年には、避暑中の外国人を講師として英語講習会も開かれました。
文学者や教育者が多く集まるこの地で、好学の士が互いに研鑽するようになったのは当然の流れだったのかもしれません。当時の外務大臣、後藤新平男爵の呼びかけに応じ、大正7(1918)年には「軽井沢通俗夏期大学」が開設されました。学長は、後藤と交流の深かった東京女子大初代学長の新渡戸稲造が務めています。
アカデミズムと実業の交流を目指し、あえて〝通俗〞と名付けられた夏の学び舎では、宗教や経済政策、科学の話から英語講座まで、幅広い分野での講演が行われました。気鋭の研究者や実業者による数々の講演は、避暑地の人々に新しい学問の喜びを提供しただけでなく、中央の有識者の目を軽井沢に向けさせるきっかけともなったのです。
質素な生活を好む外国人避暑客の中には、ブルジョア的な大正期の軽井沢を敬遠する人もいましたが、自然の中に娯楽を求める宣教師たちのライフスタイルは、ここで過ごす日本人に確実に踏襲されていきました。爽やかで健康的な高原保養地のイメージは、別荘地開拓の流れの中で紆余曲折しながらも、多くの人々の軽井沢にかける愛情に支えられて、現在までつながっています。

参考文献/「軽井沢物語」(宮原安春著)講談社、「避暑地 軽井沢」(小林收著)櫟

 

世界で唯一 五輪旗を二度迎えた街・軽井沢

明治19年にA.C.ショーが初めて訪れて以来、国を超えて多くの人々に愛されてきた軽井沢。この地に親しむ外国人が増えるにつれ、欧米発祥のスポーツも 自然と土地になじんできました。清涼な空気の中でのスポーツは、娯楽であると共に大切な社交の舞台でもあったのです。古い写真には洋装でテニスやゴルフに 興じる文化人の姿も見られます。その後、二度のオリンピック開催を経て様々なスポーツが身近なものとなり、今では誰もが四季折々の自然を楽しみながら、心 地よい汗を流せる場所となっています。

長野冬季オリンピック
 
氷上で繰り広げられた熱き戦い
 
スポーツの街・軽井沢を世界的に印象づけたのは、1998年の長野冬季オリンピックではないでしょうか。この大会で初の公式種目となったカーリング競技が、風越公園アリーナで開催され、観客を沸かせました。もともと軽井沢はスピードスケートの世界選手権やアイスホッケー、フィギュアスケートの国体会場となったほど、氷上競技のさかんな場所。この五輪を機にクラブチームが結成されるなど、カーリング熱も一気に高まりました。

 

東京オリンピック二度のオリンピックの舞台として
 
東京オリンピックの総合馬術も開催された軽井沢は、夏冬両方のオリンピック会場となった世界唯一の街です。総合馬術とは「馬場馬術」「障害飛越」に、道なき原野を駆ける「野外騎乗」という種目が加わったもの。コースに適した自然があり、かつ交通の便が良い軽井沢が、東京に次ぐ会場として選ばれました。当時は12ヶ国48人が参加し、激しくも美しいレース展開で観客を魅了しました。総合一位は、ハードな野外騎乗で最高得点を獲得したイタリアのチッコリ選手。女性騎手として奮闘したアメリカ・デュポン選手の艶やかな演技を憶えている人もいることでしょう。5つのコースがつくられた地蔵ヶ原一帯は現在ゴルフ場となっていますが、馬の蹄ひずめ模様を配した聖火台は今も風越公園のオリンピック記念館横に残されています。
人馬が一体となる躍動感を自分でも体感したいという人は、体験コースのある乗馬クラブを覗いてみるのがいいでしょう。会員でなくてもレッスンを受けられ、場内や林内コースでひき馬を楽しむこともできます。

 

高原でスポーツに興じる休日
 
軽井沢テニス

古くから上流階級に親しまれたテニスも軽井沢の代表的なスポーツです。かつて避暑に訪れた人々は、まずコートへ出向き、別荘の仲間と親交を深めたといいます。明治から昭和初期には別荘所有者のみが利用できる会員制のコートがいくつも作られました。天皇陛下と美智子皇后のロマンスで知られる「軽井沢会テニスコート」もそのひとつです。もちろん今では、予約も不要で、だれもが気軽に利用できるコートが塩沢エリアなどに点在しています。高原の心地よい風を受けて優雅にプレーできるのは、軽井沢ならでは。ラケットや靴をレンタルできるなど、ビジターにうれしい気配りもあります。
浅間山を望む広大なゴルフ場からボート遊びができる涼やかな湖、サイクリングに適した小径まで、軽井沢の自然はとても表情豊かです。好きなスポーツを思い思いに楽しむことで、いつもと違う街の表情も見えてくるかもしれません。

 

軽井沢には落葉松がお似合い

新緑の瑞々しい緑、黄金色に輝く紅葉、凛とした冬木立…。「落葉松」は軽井沢を洋風リゾートに染めあげていった立役者ともいえる美しい木で、針葉樹には珍しく秋になると紅葉し落葉するのが特徴です。明治初期の軽井沢は、江戸時代に起きた浅間山大噴火の影響でまだ背の高い樹木がほとんど無く、小花咲き乱れる一面の大草原でした。そこにひとりの豪快な植林王が現れて…。現在の豊かな森へと繋がる軽井沢と落葉松の深い縁えにしを紐解いてみましょう。
 
開拓者たちが創った「軽井沢の森」
 
落葉松明治初期、避暑地の片鱗すらない軽井沢の原野を購入し、膨大な数の落葉松を植えた人物がいました。その名は雨宮敬次郎。近代化のうねりの中で養蚕・鉄道・製鉄など多分野で活躍した大実業家です。いささか移り気の感のある事業歴の中で、軽井沢の開墾だけは全く別の意味を持っていた、と雨宮は述懐しています。

「私はその時分肺結核で血を吐いていたから、とても長くは生きられないと考えていた。〝せめてこの地に自分の墓場を残しておきたい〞という精神で開墾を始めた。決して金を儲けて栄華をしたいという考えからではなかった」。かつてアメリカ大陸横断旅行で目の当たりにした、不毛の地が開墾によって見事に生まれ変わる様子に衝撃を受けた雨宮は、浅間山の裾野に近代農場を経営しようと大志を抱きました。ワインのための葡萄栽培、黒麦生産など次々に挑戦しましたが、気候の厳しさは想像以上。紆余曲折の末、最後に成功したのが落葉松や赤松の植林だったのです。
「(落葉松の)性質は檜と杉の間の良材で、この土地の風土に最適で成長が早い。私自身の健康のためにも最適であった。毎年30万、40万本ずつ植えていったのが遂に700万本になった。私は木を植えるという、金の貯蓄ではなく木の貯蓄をやっている。生前の貯蓄ではなく死後のために貯蓄をやっているのだ」この気骨ある哲学が、後世の軽井沢に美しい森を誕生させたというわけです。
大正時代にはさらに新たな開拓者が登場しました。貿易商社野澤組の野澤源次郎で、彼も転地療養ですっかり健康を取り戻したことから、軽井沢を〝天下の健康保養地〞として広めようと、当時の特権階級に向けた洋風別荘地を開発しました。六本辻を核に「落葉松通り」「柏通り」「楓通り」「銀杏通り」など放射状の道路を整備し、200万本にのぼる植林を施して高級リゾートらしい美的景観を創り上げました。
 
詩人を魅了した落葉松林
 
落葉松は軽井沢を舞台にした文学作品にもしばしば登場します。中でも最も有名なのが、北原白秋の詩「落葉松」でしょう。大正10年、37歳の白秋は菊子夫人と軽井沢に滞在し朝に夕に落葉松林を散策、長く途絶えていた詩作を復活させました。同年11月の『明星』に発表されたこの詩は、彼の代表作のひとつとなりました。
日本中で歌い継がれている声楽の名曲「落葉松」は、軽井沢をこよなく愛した文学者 野上彰が昭和22年に書いた詩に、作曲家 小林秀雄が曲を付けたもの。たまたまラジオでこの詩を知り大きな感銘を受けた小林が作曲の承諾を得ようとしたところ、わずか1週間前に野上が亡くなっていたことを知ります。秀麗な落葉松にせつなさを見た美しい詩と、天国の詩人に捧げられた気品あふれるメロディーが印象的です。

「落葉松」北原白秋

 

軽井沢の野鳥たち 梢でお逢いしましょう

野鳥という言葉の創始者であり「日本野鳥の会」を興した中西悟堂は、100 種類以上の鳥が生息する軽井沢を、富士山麓・日光と並ぶ日本三大野鳥繁殖地と呼びました。葉が落ちて木々の間がよく見渡せる秋冬は、バードウォッチングに絶好の季節です。

 

軽井沢で見られる冬の鳥には2種類あります。ツグミ・ベニマシコ・ハギマシコ・マヒワ・アトリ・ヒレンジャク・カシラダカ・マガモなど、北の国からやってくる渡り鳥がいわゆる「冬鳥」。一方で、シジュウカラ・イカル・アカゲラ・カルガモなどは一年を通して軽井沢で見られる鳥で、「留鳥」と呼ばれます。
葉が落ちて明るい林を歩きながら、1羽ずつ、1種類ずつ、どんな姿か、また何をしているのかゆっくり観察できるのも、冬ならではのバードウォッチングの楽しみです。軽井沢で最もお馴染みのシジュウカラでも、目をこらして見ていると、背中の黄色がびっくりするほど美しかったり、ネクタイのような胸の黒い線に1羽ごとの微妙な差があったり…。専門家によれば名前をつけてじっくり観察していると、性格の違いまで見えてくるそうです。
バードウォッチングのメッカ「国設野鳥の森」だけでも、年間70〜80種類の野鳥が確認されますが、重装備で山の中や森の奥まで分け入らなくても大丈夫。ホテルやペンションの庭先に置かれた餌台で、じゅうぶん愛らしい鳥たちの姿を眺めることができます。

ゆったりと流れる冬時間の中、ひと味違った野鳥との出逢いを楽しんでみてはいかがでしょう。

 

斑鳩イカル( アトリ科/体長約23㎝ )
軽井沢全域で見られ、頭巾を被ったような黒い頭と黄色い大きな口ばしが特徴。「キーコーキーコー」という口笛のような鳴声を頼りに探すのがコツ。

 

 

 

 

赤啄木鳥アカゲラ( キツツキ科/体長約23.5㎝ )
木の幹で虫などをついばむお馴染みのキツツキ。軽井沢全域で見られ、キョッキョッあるいはケケケケというけたたましい声と、白黒+レッドの派手な模様は冬の林ではよく目立つ。

 

 

 

萩猿子ハギマシコ( アトリ科/体長約16㎝ )
シベリアや北海道大雪山あたりから渡ってくる冬鳥。急峻な崖が大好きで、碓氷峠あたりで出会える可能性が高い。お腹のまだらな紫色が特徴で、草の種子を割るための太い口ばしを持ち、時には100 ~ 200 羽で群れていることも。

 

 

瑠璃鶲ルリビタキ( ツグミ科/体長約14㎝ )
夏は高山や北国で生活し、冬になると軽井沢に渡ってくる鳥で、沢沿いのやぶのような場所で発見しやすい。ヒッヒッ、ガッガッという鳴声が特徴で、成長したオスの羽はまさにルリ色。

 

 

真鴨マガモ( カモ科/体長約60㎝ )
シベリアからの渡り鳥で、コガモやカルガモと仲良く泳ぐ姿が雲場池で見られる。写真はオスだがメスに似た夏の羽。冬のオスは輝くような深緑の頭に白い首輪、黄色い口ばしがトレードマーク。

 

軽井沢 アートの迷宮を旅する

小説家、音楽家など多くの芸術家たちに愛されてきた避暑地・軽井沢。浅間山をバックにした雄大な自然風景に魅了された画家や工芸家たちも、大勢この地にアトリエを構えてきました。個性的な美術館やギャラリーも数多く点在する豊饒な「アートの里」の一面は、新しい軽井沢の顔として近年盛んにクローズアップされています。

アートの迷宮を旅する

 

■軽井沢ならではの美術館やギャラリー
 
20世紀美術の宝庫『セゾン現代美術館』や、多彩な企画でヨーロッパ近・現代美術を紹介する『メルシャン軽井沢美術館』など、軽井沢を代表する美術館の特徴のひとつは、まさに一幅の絵の価値に匹敵する緑のロケーションにもありそうです。蔦の絡まるウイスキー蔵や彫刻を配した一面の草原…、鑑賞の余韻を優しく包む庭園の爽快感はまた格別です。
 
文化学院創設者・西村伊作の『ル・ヴァン美術館』、昭和を代表する洋画家・脇田和の『脇田美術館』、生涯にわたって山を描き続けた田崎廣助の『田崎美術館』など、軽井沢を第二の故郷として愛した芸術家たちの個人美術館にも、ぜひ一度足を運んでみたいもの。また、絵本とその原画を収集・展示する『軽井沢絵本の森美術館』や、人間愛を謳った『ペイネ美術館』など、メルヘンな世界観を持つ美術館も軽井沢ならではのテイストです。
 
社交の場として重要な役割を担った別荘には「名画」が必須アイテムだったことから、旧軽井沢界隈には昔から有名画廊の夏期出張店がひしめいていました。現在はモダンアートやクラフトなどジャンルも多彩に広がり、シーズンごとに打ち出すユニークな企画でその個性を競っています。
 
アートの迷宮を旅する

 

避暑地の書斎 軽井沢を愛した作家たち

旧軽井沢「ショー通り」から南へ折れた細い小径に、純日本風の古い別荘が佇んでいます。詩人であり小説家の室生犀星は、大正9年に初めて軽井沢を訪れて以来終生この地を愛した文士で、“こおろぎ箱”と呼び親しんだこの家で、堀辰雄・立原道造・津村信夫ら若き後輩たちを温かい眼差しで見守った逸話は、軽井沢と文学の永い歴史のはじまりを象徴する風景として伝説のように語り継がれています。

軽井沢の涼風の中でペンを走らせた作家は、有島武郎・正宗白鳥・川端康成・北原白秋・芥川龍之介・円地文子・吉川英治・芹沢光治良・野上弥生子・石坂洋次郎・柴田錬三郎・井上靖・横溝正史・野村胡堂・神谷美恵子・中村真一郎・福永武彦・加藤周一・三島由紀夫・加賀乙彦・辻邦生・遠藤周作・矢代静一・北杜夫…と枚挙にいとまがありません。現在も内田康夫・藤田宜永・小池真理子ら当代きっての書き手たちが、仕事場を構えたり執筆の一拠点にするのも、インスピレーションを湧き立たせる自然環境とともに、避暑地としての百年間が培った “周囲から干渉されない無類の心地よさ”が備わっているからに違いありません。

 

 

美しい村■戦前の文士が描いた軽井沢

堀 辰雄
〔1904-1953 /詩人・小説家。19歳の時、室生犀星の知遇を得て軽井沢を訪れて以来、49歳で亡くなるまでこの地を創作拠点とした〕

ある日のこと、私は自分の「美しい村」のノオトとして悪戯半分に色鉛筆でもって丹念に描いた、その村の手製の地図を、彼女の前に拡げながら、その地図の上に万年筆で、まるでスイスあたりの田舎にでもありそうな、小さな橋だの、ヴィラだの、落葉松の林だのを印しつけながら、彼女のために、私の知っているだけの、絵になりそうな場所を教えた。〔『美しい村』より〕

私の借りた小屋は、その村からすこし北へはいった、ある小さな谷にあって、そこいらにも古くから外人たちの別荘があちこちに立っている、ーなんでもそれらの別荘の一番はずれになっているはずだった。そこに夏を過ごしに来る外人たちがこの谷を称して幸福の谷と云っているとか。〔『風立ちぬ』より〕

 

 

立原道造詩集立原道造
〔1914-1939 /詩人・建築家。堀辰雄の愛弟子として昭和9年から13年までたびたび軽井沢や追分を訪れるが、肺病のため24歳で夭折〕

夢はいつもかへつて行つた 
山の麓のさびしい村に 
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない 
しづまりかへつた午さがりの林道を
〔「のちのおもひに」『萓草に寄す』より〕

 

 

本格小説■軽井沢が舞台になった近年の小説

水村美苗
『本格小説』〈旧軽井沢と追分の別荘を舞台に全編に軽井沢が薫る壮麗なロマンス〉

モミの木の並木道はまっすぐ続いた。歩くにつれ、生垣の間から広い庭が次々と見え隠れする。手入れが行き届いているとみえ、どの庭もあまり雑草も落葉もなく、代わりにやわらかそうな緑色の杉苔が庭一面を覆い、絨毯が敷き詰められたようであった。そしてその苔の絨毯のあちこちにさまざまな木−白樺や樫や紅葉がてんでに影を落とし、その木立の向こうに、思い思いの形をした建物がひっそりと建っていた。
(中略)それでいて両側に高くそびえるモミの木がこの並木道ができてからの年月を感じさせるせいだろうか、あるいは生垣の間から見え隠れする苔庭が数代にわたる人の丹精を感じさせるせいだろうか、それともたんに祐介の頭にある軽井沢をめぐる断片的な知識のせいであろうか、長い時の流れにゆっくりと熟していった贅沢があたりの空気に濃密に漂うようであった。

 

恋小池真理子
『恋』〈美学に彩られた妖しい三角関係が軽井沢のひと夏から幕を開ける〉

国道十八号線沿いにある中軽井沢駅前を通り過ぎ、追分方面に走る途中の右手に小径がある。その小径から五百メートルほど奥に入ると、行き止まりに背の低い、苔むした石造りの門が現れ、そこが片瀬夫妻の別荘の入口になっていた。地図の上では、千ヶ滝西区と呼ばれている別荘地のはずれに位置していたが、正確には千ヶ滝地区とは区別されており、住居表示は古宿だった。

 

 

取材協力/軽井沢高原文庫

 

時代とともに歩んだ 「別荘地軽井沢」

「都会の暑さを避けて高原で英気を養う」そんなリゾートの概念がはじめて軽井沢に降り立ったのは、今から120年前、明治時代半ばのこと。そのキーパーソンが軽井沢の爽やかな気候に惚れ込み、最初の別荘を構えたカナダ人宣教師アレキサンダー・クロフト・ショー(1846-1902)でした―

photo異人さんの別荘村出現
宣教師ショーが明治21年に建てた軽井沢初の別荘「ショーハウス」を眺めてみましょう。土台となった古い旅籠の建物は、土間(馬入れ)に床を張れば玄関ホールに、2階は主寝室と3つのゲストルームが取れるなど、外国人仕様にリフォームするにはなかなか好都合な造りでした。

英国国教会牧師として来日し、英国公使館付名誉牧師の要職にあったショーが推薦する保養地とあって、その噂はたちまち在日外国要人の間に広まりました。休暇ごとに船で本国へ帰るわけにはいかなかった彼らは、夏になるとこぞって軽井沢にやってきて質素なサマーハウスで避暑生活を謳歌することに。明治時代末期には、旧軽井沢周辺はさながら外国人村の様相を呈していました。

日本人初の別荘を建てた人
「碓氷峠の向こうに、異人さんがぞろぞろ歩いている街がある」。滞在先の群馬県霧積温泉の主人からそんな話を聞き、その光景に強く惹かれた人物がいます。官費留学生として英国グリニッジ海軍大学校に学び、後に海軍大佐を務めた八田裕二郎です。

明治政府の近代化政策によって海外生活を経験した日本人エリートたちは、帰国後日欧の感覚的ギャップに苦しめられることが多く、八田も例外ではありませんでした。「信州に外国人と英語で話ができるリゾートがある」ストレス性の頭痛に悩まされていた八田にとっては、小躍りするほど嬉しいニュースだったに違いありません。

「一夏この高原で静養すればすぐに元気になるよ」外国人たちからそう励まされた八田は、早速別荘を建てて静養にいそしみました。代々大切に受継がれているその別荘は、現在も「ショー通り」西側に静かに佇んでいます。

雲場池界隈に日本人名士の洋館建ち並ぶ
大正時代に入ると「野澤原」と名付けられた一角(現在の六本辻周辺)に、華族や政財界要人の洋風別荘が次々に登場しました。貿易商社「野澤組」の野澤源次郎は、転地療養に訪れた軽井沢で健康を取り戻したことから、約200万坪の土地を取得すると「健康保養地」と銘打った分譲を開始し、雲場池の周りにホテル・ゴルフ場・マーケット・並木道などが整備された〝ハイカラ〟リゾートを構築しました。建築は輸入住宅専門会社「あめりか屋」が請負い、ターゲットは徳川慶久・大隈重信・後藤新平ら当代きっての名士たち。それまで宣教師が築いた「聖地」の色合いが濃かった軽井沢に、日本人好みの華麗なる西洋趣味が花開いた瞬間でもありました。

「五百円別荘」登場
一方、〝軽井沢に別荘を構える〟ことは、超ブルジョア層だけの特権だったわけではありません。学者や比較的所得の高いホワイトカラーにも手が届く、そんな庶民派別荘分譲を計画したのが、まだ早稲田大学の学生だった堤康次郎でした。大正12年、堤は戸数限定で「土地付五百円別荘」の販売を開始。パンフレットにはこんな文字が躍ります。「天下の軽井沢に五百円でこう云う土地付別荘が持てるのですからナント愉快ではありませんか。…軽井沢の天恵を一部少数の人々の独占から開放して、真に都会に奮闘努力される、多数中産階級の方々の保健、休養のための必用品として…五百圓別荘を提供することにしました」。

その後も三笠・南原・追分…と、エリアごとにある種の特徴を持った別荘地風景が広がり、多種多彩な人々が織り成す独特の「別荘地軽井沢」の香りが、120年にわたる時の流れの中で熟成されていったのです。