歴史と伝統息づく軽井沢の魅力をご紹介!
2013年4月8日
軽井沢…この町が「避暑地」となってから百年あまりの歴史はよく語られるところですが、そのずっと昔はどんな場所だったのでしょう?町内にあるふたつの遺跡をたずね、浅間山の麓で営まれた“いにしえの人々”の暮らしに想像をめぐらせてみましょう。
長倉の牧(まき)〈平安時代〉 国道18号線を中軽井沢から小諸方面に進み、上ノ原信号を右に曲がった道が、通称〝ロイヤルプリンス通り〞です。この道を1㎞ほど進んだ右手の別荘地の小径に「長倉の牧」と呼ばれる平安時代の牧場の土手跡が残っています。 延長5年(927)に制定された延喜式(えんぎしき)( ※1)では、五畿七道四百二ヶ所の宿駅名と、それぞれの駅馬・伝馬( ※2)の数が定められました。この駅制の中で初めて「長倉」という名称が登場し、その場所は現在の中軽井沢付近だったのではないかと考えられています。 当時の朝廷は、交通手段としての駅馬・伝馬のほかに、蝦夷(えぞ)征伐などの軍事用、皇室要人の乗馬用と、馬の需要が非常に高く、奈良時代中期になると、信濃・甲斐・武蔵・上野の四カ国に計三十二の御牧(みまき)(官営牧場)が設置され、貢馬(こうば)が義務づけられました。 佐久地方「望月・塩野・長倉」の三牧場からは、毎年八十頭の馬を差し出さなくてはなりませんでした。火山灰地には良質の牧草が育ち湧水も豊富ですが、ひとたび浅間山の噴火が起こると降灰被害で牧草が大打撃を受けるため、貢馬の苦労は並大抵のものではなかったと思われます。 現在この付近以外の土手跡はほとんど消滅してしまいましたが、当時は離山(はなれやま)の南麓から追分まで東西一直線に連なり、草をはむ馬たちののどかな風景が広がっていたと想像されます。
※1.平安初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記した、律令の施行細則。 ※2.駅馬は駅ごとに完備された官馬。伝馬は使者や物資を中央から地方へ運ぶために乗り継ぐ馬。
茂沢南石堂遺跡(もざわみなみいしどう)〈縄文時代〉 釜ケ淵橋を南に進み、杉瓜入口バス停を右折直進すると杉瓜の集落に入ります。そこから右へ回り込み、自由が丘別荘地の一帯を抜けると、目の前に広大な畑が開けてきます。右方向奥に目を凝らせば、落葉松林を背に柵で囲まれた小さな広場が現れ、地面から古代の住居址と思われる敷石群が顔をのぞかせています。これが軽井沢町指定文化財「茂沢南石堂遺跡」で、環状列石(集団墓地)の中には珍しい箱型石棺も見てとれます。 昭和33年、この近辺で行われた道路改修工事の最中に大量の土器や石器が出土したため、昭和36年から約20年間にわたり東京大学・三上次男教授を中心とするメンバーによって発掘調査が行われました。その結果、縄文時代中期・後期のものと思われる遺跡が続々と発見されたのです。 竪穴住居はゆがんだ円形タイプが多く、柱穴が多いことも特徴です。柱を残したまま住居を廃棄していることや、発見された土器類が北関東との交流を物語っていることから、しばらくこの地に住んでは去ってゆく、その繰り返しが軽井沢と北関東の間で行われていたのではないかと考えられています。 縄文時代後期になると気候の寒冷化がはじまり、自然環境の厳しさは人々の信仰心を高める結果につながりました。家々からは石棒や丸石など精神生活にかかわる出土品が多数発見され、篤い信仰心が漂っています。縄文後期の中ごろには急激な寒冷化が進み、それ以降この地に先史時代の人々の足跡は見当たらなくなりました。
※深鉢形土器や石皿などの出土品は軽井沢町歴史民俗資料館で観ることができます。
参考文献:「軽井沢町茂沢南石堂遺跡」 (軽井沢町教育委員会 編)、「軽井沢」 (長野県軽井沢高校 地域圏学習研究委員会 編、「軽井沢町誌」 (軽井沢町)
>>トップページへ
Copyright © 軽井沢ネット 軽井沢エッセンス,All Rights Reserved.
軽井沢…この町が「避暑地」となってから百年あまりの歴史はよく語られるところですが、そのずっと昔はどんな場所だったのでしょう?町内にあるふたつの遺跡をたずね、浅間山の麓で営まれた“いにしえの人々”の暮らしに想像をめぐらせてみましょう。
長倉の牧(まき)〈平安時代〉
国道18号線を中軽井沢から小諸方面に進み、上ノ原信号を右に曲がった道が、通称〝ロイヤルプリンス通り〞です。この道を1㎞ほど進んだ右手の別荘地の小径に「長倉の牧」と呼ばれる平安時代の牧場の土手跡が残っています。
延長5年(927)に制定された延喜式(えんぎしき)( ※1)では、五畿七道四百二ヶ所の宿駅名と、それぞれの駅馬・伝馬( ※2)の数が定められました。この駅制の中で初めて「長倉」という名称が登場し、その場所は現在の中軽井沢付近だったのではないかと考えられています。
当時の朝廷は、交通手段としての駅馬・伝馬のほかに、蝦夷(えぞ)征伐などの軍事用、皇室要人の乗馬用と、馬の需要が非常に高く、奈良時代中期になると、信濃・甲斐・武蔵・上野の四カ国に計三十二の御牧(みまき)(官営牧場)が設置され、貢馬(こうば)が義務づけられました。
佐久地方「望月・塩野・長倉」の三牧場からは、毎年八十頭の馬を差し出さなくてはなりませんでした。火山灰地には良質の牧草が育ち湧水も豊富ですが、ひとたび浅間山の噴火が起こると降灰被害で牧草が大打撃を受けるため、貢馬の苦労は並大抵のものではなかったと思われます。
現在この付近以外の土手跡はほとんど消滅してしまいましたが、当時は離山(はなれやま)の南麓から追分まで東西一直線に連なり、草をはむ馬たちののどかな風景が広がっていたと想像されます。
※1.平安初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記した、律令の施行細則。
※2.駅馬は駅ごとに完備された官馬。伝馬は使者や物資を中央から地方へ運ぶために乗り継ぐ馬。
茂沢南石堂遺跡(もざわみなみいしどう)〈縄文時代〉
釜ケ淵橋を南に進み、杉瓜入口バス停を右折直進すると杉瓜の集落に入ります。そこから右へ回り込み、自由が丘別荘地の一帯を抜けると、目の前に広大な畑が開けてきます。右方向奥に目を凝らせば、落葉松林を背に柵で囲まれた小さな広場が現れ、地面から古代の住居址と思われる敷石群が顔をのぞかせています。これが軽井沢町指定文化財「茂沢南石堂遺跡」で、環状列石(集団墓地)の中には珍しい箱型石棺も見てとれます。
昭和33年、この近辺で行われた道路改修工事の最中に大量の土器や石器が出土したため、昭和36年から約20年間にわたり東京大学・三上次男教授を中心とするメンバーによって発掘調査が行われました。その結果、縄文時代中期・後期のものと思われる遺跡が続々と発見されたのです。
竪穴住居はゆがんだ円形タイプが多く、柱穴が多いことも特徴です。柱を残したまま住居を廃棄していることや、発見された土器類が北関東との交流を物語っていることから、しばらくこの地に住んでは去ってゆく、その繰り返しが軽井沢と北関東の間で行われていたのではないかと考えられています。
縄文時代後期になると気候の寒冷化がはじまり、自然環境の厳しさは人々の信仰心を高める結果につながりました。家々からは石棒や丸石など精神生活にかかわる出土品が多数発見され、篤い信仰心が漂っています。縄文後期の中ごろには急激な寒冷化が進み、それ以降この地に先史時代の人々の足跡は見当たらなくなりました。
※深鉢形土器や石皿などの出土品は軽井沢町歴史民俗資料館で観ることができます。
参考文献:「軽井沢町茂沢南石堂遺跡」 (軽井沢町教育委員会 編)、「軽井沢」 (長野県軽井沢高校 地域圏学習研究委員会 編、「軽井沢町誌」 (軽井沢町)