言葉が紡ぐ避暑地の情景 「軽井沢」を詠う

噴火口からゆるやかに尾根をつなげる堂々たる浅間の山塊。麓を黄金色に彩る落葉松の林。梢を渡る風の音や流れるせせらぎはまるで優雅な楽曲のようで、軽井沢の情景は詩情と変化に満ちています。古道をたどった旅人も、別荘に遊んだ明治大正の文人たちも、美しく広大な自然を愛し、言葉にのせてその感動を紡いできました。今回は軽井沢の中で歌や句に詠まれ残された、人びとのこの地への想いをご紹介します。

文豪の碑

旅の歴史を刻む碓氷の峠
日本武尊(やまとたけるのみこと)が碓氷の坂に弟橘姫(おとたちばなひめ)を想い詠った昔から、軽井沢には人びとの往来の記録が残っています。万葉時代、下野(しもつけ)の国からはるか九州へと赴いた旅人も、愛する家族を心に残しながら、碓氷峠を越えたことでしょう。
俳人・松尾芭蕉が信濃へと赴き、「更科紀行」を記したのは元禄元(1688)年のこと。木曾路を抜けて善光寺を詣で、江戸へと戻る旅路で、中山道の宿場であった軽井沢を歩いています。
 
馬をさへ なかむる雪の あした哉 芭蕉

宿からの眺めをユーモラスに謳ったこの句の碑は、芭蕉の没後150年に当たる天保14(1843)年、門人の手で旧軽井沢北の大宮橋たもとに建てられました。当時は宿場の江戸側出入口にあたり、枡形などが設けられた重要な場所だったのです。
 
女流歌人の愛した山あいの湯
明治大正の世となると、軽井沢は避暑地としての新しい顔を持つようになります。外国人宣教師らが簡素な別荘を建て、夏を過ごした山麓の地は、やがて国内の要人たちの特別な場所となったのです。
当時、歌壇に華やかな話題を振りまいていた与謝野晶子も、軽井沢をこよなく愛したひとりです。彼女は夫・鉄幹と明星館(現・星野温泉)を訪れ、自然と心情とを重ね合わせた名歌を残しています。
 
うら悲し北の信濃の高原の
  明星の湯にあることもまた
月見草近きところに花咲きて
  待つ人のある夜のここちする
 
星野温泉敷地内に湧く明星池のほとりには、与謝野夫妻の歌がそれぞれの自筆で残されています。どこか寂しさを漂わせる明星館での歌とは異なり、「鴛鴦(えんおう)の歌碑」と呼ばれるその碑に残るのは、共に軽井沢滞在中に詠まれた、秋の日の明るく力強い情景です。
 
北原白秋詩碑
 
創作の源泉となった風景
軽井沢の代表的なイメージをつくりあげた北原白秋の「落葉松」は、大正10(1921)年11月の「明星」誌上に発表されました。一時詩作の途絶えていた白秋にとって、文壇への復活の意味も持つ象徴的な作品です。詩碑が建つのは星野温泉の入口。浅間の山容にも似た巨岩の碑の傍らには、落葉松の大木がつき従うかのような趣で立っています。
室生犀星や津村信夫、川端康成ら、軽井沢で交流を深めた作家たちも少なくなかったようです。のちに追分を生涯の居と定めた堀辰雄もその一人。彼は「美しい村」をはじめ、多くの詩や小説の題材をこの地に求めました。
立原道造は昭和9(1934)年、師である堀辰雄に勧められて、初めて追分を訪れています。24年という短い生涯を自覚していたのか、以来、熱心に軽井沢を訪れ、「萱草に寄す」「暁と夕の詩」などの優れた詩集を生み出しました。
代表作「のちのおもひに」の冒頭部分を刻んだ詩碑は平成5(1993)年、塩沢湖畔の軽井沢高原文庫の前庭に建てられました。また、追分公民館の玄関脇の壁には、「村はずれの歌」の一遍と共にレリーフが彫られ、幼さの残る詩人の表情を浮かび上がらせています。
道造の詩に謳われたように、歌人、作家たちは創作の源を求め、生業の場に戻ってもなお、山の麓の村へと幾たびも想いを馳せたにちがいありません。

立原道造詩碑

参考文献/「軽井沢文学散歩」 軽井沢町編 軽井沢観光協会発行