軽井沢ー 歴史的建造物を巡る[2] 時代を映した窓辺

建築には時代の意識が反映されるといいます。意匠の違い、様式の違いを見る面白さはもとより、そこを行き過ぎた人びとの生活の匂いや想いを感じられるのも、古い建物を巡る醍醐味です。軽井沢には、移り行く時代の中で、少しずつ場所や姿を変えながらも、歴史を見つめ続けてきた建物が多く保存されています。明治、大正、昭和。扉の向こうに今も漂う、古き良き日の空気を感じに出かけましょう。
(旧)軽井沢駅舎記念館

市村記念館・明治四十四年館貴賓客を迎えた表玄関

長野新幹線軽井沢駅の北口を降りてすぐ、左手に佇む赤い屋根の建物が、「(旧)軽井沢駅舎記念館」です。直江津から軽井沢までの官営鉄道が開通し、この場所に初めて駅ができたのは明治21(1888)年のこと。ちょうど軽井沢が避暑地として、在日の宣教師たちの間に広まり始めた頃と前後します。上下線で1日3本の往復だったそうですから、列車はのんびりと開拓途中の原野を走っていたのでしょう。
その後、信越本線の駅として皇族をはじめ多くの政財界人や外国の要人たちが訪れるようになり、明治43(1910)年、駅舎の大改築が行われることになりました。1階建ての小さな駅舎が、いかにも欧風情緒に満ちた下見板張り白ペンキ塗りの堂々たる建物に生まれ変わったのです。
現在の記念館は、新幹線駅ができる時に取り壊された当時の建物を再築保存したもの。1階では、信越本線や草軽軽便鉄道に関する鉄道資料を、2階では当時の様子を再現した貴賓室を見ることができます。
 
歴史を動かす拠点として

離山の麓には、近衛文麿元首相が大正期に使っていた別荘が、「市村記念館」と名を変えて残されています。近衛公は短い避暑の間に「軽井沢ゴルフ倶楽部」を創設し、この別荘をクラブハウスとしても使っていました。建築は、当時の流行の最先端をいく〝あめりか屋〞によるもの。東に応接室、西に居室と食堂、2階には畳敷きの座敷もあるハイカラなスタイルです。首相のもとを訪れる多くの要人文化人も、ここでくつろぎ、日本の現状や将来について激論を戦わせたのでしょう。応接室の床には、今でも近衛公のゴルフシューズの跡がかすかに残り、当時の日本を動かしていた男たちの息吹を、身近に感じることができます。
別荘は昭和7(1932)年、早稲田大学の教授であった市村今朝蔵氏と妻・きよじ氏に譲られたのち、南原に移築。夫妻は、この建物を拠点に南原別荘地開発を行い、訪れる人びとの文化向上にも力を尽くしています。その後、市村家から軽井沢町に寄贈され、現在の場所に移築復元されました。
 
建築物保存の想いが集結

昨年5月、国の登録有形文化財となった旧軽井沢郵便局舎は、「明治四十四年館」の名で、軽井沢タリアセン内に移築復元されています。もともとは旧軽井沢の目抜き通りにあり、昭和46(1971)年からは町の観光会館として使われていました。木造2階建て、薄いブルーの外壁が目を引く、美しい洋風建築です。
この建物が最初に建てられた明治44(1911)年当時、郵便局は、軽井沢の別荘に滞在する人々にとって外部と連絡を取る大切な窓口でした。海の向こうにいる家族や都市の知り合いに便りを届けようと、自然と多くの人が集まり、社交の場となったのも当然のことだったでしょう。老朽化にともない、壊される運命だった建物を、多くの人が惜しみ、保存運動が展開されたのも、そうした背景があったからこそ。この時、保存運動の主体となった「軽井沢別荘建築保存調査会」は、後に軽井沢ナショナルトラストとして、現在も歴史的建築物の調査、保存を進めています。