歴史と伝統息づく軽井沢の魅力をご紹介!
2012年5月7日
「都会の暑さを避けて高原で英気を養う」そんなリゾートの概念がはじめて軽井沢に降り立ったのは、今から120年前、明治時代半ばのこと。そのキーパーソンが軽井沢の爽やかな気候に惚れ込み、最初の別荘を構えたカナダ人宣教師アレキサンダー・クロフト・ショー(1846-1902)でした―
異人さんの別荘村出現 宣教師ショーが明治21年に建てた軽井沢初の別荘「ショーハウス」を眺めてみましょう。土台となった古い旅籠の建物は、土間(馬入れ)に床を張れば玄関ホールに、2階は主寝室と3つのゲストルームが取れるなど、外国人仕様にリフォームするにはなかなか好都合な造りでした。
英国国教会牧師として来日し、英国公使館付名誉牧師の要職にあったショーが推薦する保養地とあって、その噂はたちまち在日外国要人の間に広まりました。休暇ごとに船で本国へ帰るわけにはいかなかった彼らは、夏になるとこぞって軽井沢にやってきて質素なサマーハウスで避暑生活を謳歌することに。明治時代末期には、旧軽井沢周辺はさながら外国人村の様相を呈していました。
日本人初の別荘を建てた人 「碓氷峠の向こうに、異人さんがぞろぞろ歩いている街がある」。滞在先の群馬県霧積温泉の主人からそんな話を聞き、その光景に強く惹かれた人物がいます。官費留学生として英国グリニッジ海軍大学校に学び、後に海軍大佐を務めた八田裕二郎です。
明治政府の近代化政策によって海外生活を経験した日本人エリートたちは、帰国後日欧の感覚的ギャップに苦しめられることが多く、八田も例外ではありませんでした。「信州に外国人と英語で話ができるリゾートがある」ストレス性の頭痛に悩まされていた八田にとっては、小躍りするほど嬉しいニュースだったに違いありません。
「一夏この高原で静養すればすぐに元気になるよ」外国人たちからそう励まされた八田は、早速別荘を建てて静養にいそしみました。代々大切に受継がれているその別荘は、現在も「ショー通り」西側に静かに佇んでいます。
雲場池界隈に日本人名士の洋館建ち並ぶ 大正時代に入ると「野澤原」と名付けられた一角(現在の六本辻周辺)に、華族や政財界要人の洋風別荘が次々に登場しました。貿易商社「野澤組」の野澤源次郎は、転地療養に訪れた軽井沢で健康を取り戻したことから、約200万坪の土地を取得すると「健康保養地」と銘打った分譲を開始し、雲場池の周りにホテル・ゴルフ場・マーケット・並木道などが整備された〝ハイカラ〟リゾートを構築しました。建築は輸入住宅専門会社「あめりか屋」が請負い、ターゲットは徳川慶久・大隈重信・後藤新平ら当代きっての名士たち。それまで宣教師が築いた「聖地」の色合いが濃かった軽井沢に、日本人好みの華麗なる西洋趣味が花開いた瞬間でもありました。
「五百円別荘」登場 一方、〝軽井沢に別荘を構える〟ことは、超ブルジョア層だけの特権だったわけではありません。学者や比較的所得の高いホワイトカラーにも手が届く、そんな庶民派別荘分譲を計画したのが、まだ早稲田大学の学生だった堤康次郎でした。大正12年、堤は戸数限定で「土地付五百円別荘」の販売を開始。パンフレットにはこんな文字が躍ります。「天下の軽井沢に五百円でこう云う土地付別荘が持てるのですからナント愉快ではありませんか。…軽井沢の天恵を一部少数の人々の独占から開放して、真に都会に奮闘努力される、多数中産階級の方々の保健、休養のための必用品として…五百圓別荘を提供することにしました」。
その後も三笠・南原・追分…と、エリアごとにある種の特徴を持った別荘地風景が広がり、多種多彩な人々が織り成す独特の「別荘地軽井沢」の香りが、120年にわたる時の流れの中で熟成されていったのです。
>>トップページへ
Copyright © 軽井沢ネット 軽井沢エッセンス,All Rights Reserved.
「都会の暑さを避けて高原で英気を養う」そんなリゾートの概念がはじめて軽井沢に降り立ったのは、今から120年前、明治時代半ばのこと。そのキーパーソンが軽井沢の爽やかな気候に惚れ込み、最初の別荘を構えたカナダ人宣教師アレキサンダー・クロフト・ショー(1846-1902)でした―
異人さんの別荘村出現
宣教師ショーが明治21年に建てた軽井沢初の別荘「ショーハウス」を眺めてみましょう。土台となった古い旅籠の建物は、土間(馬入れ)に床を張れば玄関ホールに、2階は主寝室と3つのゲストルームが取れるなど、外国人仕様にリフォームするにはなかなか好都合な造りでした。
英国国教会牧師として来日し、英国公使館付名誉牧師の要職にあったショーが推薦する保養地とあって、その噂はたちまち在日外国要人の間に広まりました。休暇ごとに船で本国へ帰るわけにはいかなかった彼らは、夏になるとこぞって軽井沢にやってきて質素なサマーハウスで避暑生活を謳歌することに。明治時代末期には、旧軽井沢周辺はさながら外国人村の様相を呈していました。
日本人初の別荘を建てた人
「碓氷峠の向こうに、異人さんがぞろぞろ歩いている街がある」。滞在先の群馬県霧積温泉の主人からそんな話を聞き、その光景に強く惹かれた人物がいます。官費留学生として英国グリニッジ海軍大学校に学び、後に海軍大佐を務めた八田裕二郎です。
明治政府の近代化政策によって海外生活を経験した日本人エリートたちは、帰国後日欧の感覚的ギャップに苦しめられることが多く、八田も例外ではありませんでした。「信州に外国人と英語で話ができるリゾートがある」ストレス性の頭痛に悩まされていた八田にとっては、小躍りするほど嬉しいニュースだったに違いありません。
「一夏この高原で静養すればすぐに元気になるよ」外国人たちからそう励まされた八田は、早速別荘を建てて静養にいそしみました。代々大切に受継がれているその別荘は、現在も「ショー通り」西側に静かに佇んでいます。
雲場池界隈に日本人名士の洋館建ち並ぶ
大正時代に入ると「野澤原」と名付けられた一角(現在の六本辻周辺)に、華族や政財界要人の洋風別荘が次々に登場しました。貿易商社「野澤組」の野澤源次郎は、転地療養に訪れた軽井沢で健康を取り戻したことから、約200万坪の土地を取得すると「健康保養地」と銘打った分譲を開始し、雲場池の周りにホテル・ゴルフ場・マーケット・並木道などが整備された〝ハイカラ〟リゾートを構築しました。建築は輸入住宅専門会社「あめりか屋」が請負い、ターゲットは徳川慶久・大隈重信・後藤新平ら当代きっての名士たち。それまで宣教師が築いた「聖地」の色合いが濃かった軽井沢に、日本人好みの華麗なる西洋趣味が花開いた瞬間でもありました。
「五百円別荘」登場
一方、〝軽井沢に別荘を構える〟ことは、超ブルジョア層だけの特権だったわけではありません。学者や比較的所得の高いホワイトカラーにも手が届く、そんな庶民派別荘分譲を計画したのが、まだ早稲田大学の学生だった堤康次郎でした。大正12年、堤は戸数限定で「土地付五百円別荘」の販売を開始。パンフレットにはこんな文字が躍ります。「天下の軽井沢に五百円でこう云う土地付別荘が持てるのですからナント愉快ではありませんか。…軽井沢の天恵を一部少数の人々の独占から開放して、真に都会に奮闘努力される、多数中産階級の方々の保健、休養のための必用品として…五百圓別荘を提供することにしました」。
その後も三笠・南原・追分…と、エリアごとにある種の特徴を持った別荘地風景が広がり、多種多彩な人々が織り成す独特の「別荘地軽井沢」の香りが、120年にわたる時の流れの中で熟成されていったのです。