歴史と伝統息づく軽井沢の魅力をご紹介!
2011年7月1日
満開のサクラで魅せる伝統的工芸品【軽井沢彫】
軽井沢の老舗ホテルや別荘の調度品としてよく見かける、細かい、木彫を施した渋い茶色の家具をご存知でしょうか。絢爛たる桜模様が掘り出されたこの「軽井沢彫」の家具は、日光彫りの名工たちを祖として、100年にわたり軽井沢に受け継がれている伝統的工芸品です。外国人別荘客たちの”日本趣味”への強い憧れが、軽井沢ならではの和洋折衷の逸品を育て上げました。
別荘家具に求められた遊び心 明治19(1886)年、旅の途中に軽井沢を訪れた宣教師A・C・ショーと英語教師J・M・ディクソンが、自然の見事さと爽やかな気候に感動し、夏の保養地に選んだことが『避暑地軽井沢』の始まりでした。2年後にショー師が別荘を構えたのを皮切りに、友人の外国人たちが続々と避暑に訪れたことから、テーブル・椅子・サイドボード・衣装戸棚といった洋式家具が必要になりましたが、当時の軽井沢には家具店がなく、大工や建具屋に依頼してもなかなか思い通りの品が手に入りません。彼らは東京や横浜の本宅では、本国から運び込んだビクトリア様式の重厚な家具調度を使っていたものの、自然に囲まれた簡素なセカンドハウスの生活では、異国情緒たっぷりの木彫を施したような、遊び心のあるものがほしかったのです。明治40年代には外国人別荘が飛躍的に増加、需要もますます高まったことから、満を持して「日光彫」のメッカ日光から、ふたりの職人がやってくることになりました。
名工の技が生んだ〝満開の桜〟 軽井沢初の木彫家具店として明治41年にスタートしたのが、清水兼吉の『清水テーブル店(現『清水家具店』)』と川崎巳次郎の『川崎屋家具店』でした。最初は日光彫の伝統である牡丹・菊・松・竹・梅など一般的な植物文様を描いた物静かで控えめな製品がほとんどでしたが、明治45年頃から、更なる華やかさと日本情緒を強調した「満開の桜」がモチーフに取り入れられるようになりました。この桜文様を、写実を超えた様式化にまで高めたといわれているのが、清水テーブル店の名工・鈴木喜太郎でした。空に伸びる大樹とそれをとりまく小枝や花びらを洋家具の前面に配し、周囲に星打ちをしてくっきりと浮き立たせ、後世に残る見事な作品を生み出しました。同じく清水テーブル店の上田一は、独立して旧軽銀座に『上田商店(現『一彫堂』)』を開業、洋式ホテルや外国人別荘はもとより、室生犀星や堀辰雄など日本人別荘客からの特注家具も数多く手掛けたことで知られています。写実的で流麗な日光彫を地道に踏襲した大坂屋家具店の小西寅五郎、繊細で慎ましやかな表現を得意とした柴崎家具店の印南勝栄といった数々の名工の名も、その美しい作品とともにしっかりと歴史に刻まれています。
正統派軽井沢ライフの必需品 大正時代に入ると夏の軽井沢には、外国人ばかりでなく日本人有産階級の姿も見られるようになりました。彼らも外国人別荘客の伝統を継承し、質素なリゾート生活を大切にしたことから、シンプルな木造の山荘に渋い茶色の木彫家具の組合せは、すっかり軽井沢ライフを象徴するものとなりました。軽井沢とゆかりの深い建築家で、欧米式の合理的な住宅設計とキリスト教主義で知られるW・M・ヴォーリズも軽井沢彫を愛したひとりでした。現在も近江八幡の記念館には、彼自身のデザインと思われる軽井沢彫家具が大切に保存されています。
昭和34年、信濃毎日新聞に「軽井沢彫の手箱/正田美智子さんの調度品」という記事が掲載されました。美智子妃は生涯使われるお印として軽井沢での思い出に結びつく「白樺」を選ばれ、お道具のひとつにそれをあしらった優雅な軽井沢彫手箱を注文されたのです。たゆまぬ努力と創意工夫で伝統を受け継いできた職人たちにとっても、それは大きな栄誉であり、その後の発展の励みともなった嬉しいエピソードのひとつでした。
軽井沢彫写真協力/軽井沢彫工房 一彫堂参考文献/軽井沢彫(西洋古典家具研究会発行)
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満開のサクラで魅せる伝統的工芸品【軽井沢彫】
軽井沢の老舗ホテルや別荘の調度品としてよく見かける、細かい、木彫を施した渋い茶色の家具をご存知でしょうか。絢爛たる桜模様が掘り出されたこの「軽井沢彫」の家具は、日光彫りの名工たちを祖として、100年にわたり軽井沢に受け継がれている伝統的工芸品です。
外国人別荘客たちの”日本趣味”への強い憧れが、軽井沢ならではの和洋折衷の逸品を育て上げました。
別荘家具に求められた遊び心
明治19(1886)年、旅の途中に軽井沢を訪れた宣教師A・C・ショーと英語教師J・M・ディクソンが、自然の見事さと爽やかな気候に感動し、夏の保養地に選んだことが『避暑地軽井沢』の始まりでした。2年後にショー師が別荘を構えたのを皮切りに、友人の外国人たちが続々と避暑に訪れたことから、テーブル・椅子・サイドボード・衣装戸棚といった洋式家具が必要になりましたが、当時の軽井沢には家具店がなく、大工や建具屋に依頼してもなかなか思い通りの品が手に入りません。彼らは東京や横浜の本宅では、本国から運び込んだビクトリア様式の重厚な家具調度を使っていたものの、自然に囲まれた簡素なセカンドハウスの生活では、異国情緒たっぷりの木彫を施したような、遊び心のあるものがほしかったのです。明治40年代には外国人別荘が飛躍的に増加、需要もますます高まったことから、満を持して「日光彫」のメッカ日光から、ふたりの職人がやってくることになりました。
名工の技が生んだ〝満開の桜〟
軽井沢初の木彫家具店として明治41年にスタートしたのが、清水兼吉の『清水テーブル店(現『清水家具店』)』と川崎巳次郎の『川崎屋家具店』でした。最初は日光彫の伝統である牡丹・菊・松・竹・梅など一般的な植物文様を描いた物静かで控えめな製品がほとんどでしたが、明治45年頃から、更なる華やかさと日本情緒を強調した「満開の桜」がモチーフに取り入れられるようになりました。この桜文様を、写実を超えた様式化にまで高めたといわれているのが、清水テーブル店の名工・鈴木喜太郎でした。空に伸びる大樹とそれをとりまく小枝や花びらを洋家具の前面に配し、周囲に星打ちをしてくっきりと浮き立たせ、後世に残る見事な作品を生み出しました。同じく清水テーブル店の上田一は、独立して旧軽銀座に『上田商店(現『一彫堂』)』を開業、洋式ホテルや外国人別荘はもとより、室生犀星や堀辰雄など日本人別荘客からの特注家具も数多く手掛けたことで知られています。写実的で流麗な日光彫を地道に踏襲した大坂屋家具店の小西寅五郎、繊細で慎ましやかな表現を得意とした柴崎家具店の印南勝栄といった数々の名工の名も、その美しい作品とともにしっかりと歴史に刻まれています。
正統派軽井沢ライフの必需品
大正時代に入ると夏の軽井沢には、外国人ばかりでなく日本人有産階級の姿も見られるようになりました。彼らも外国人別荘客の伝統を継承し、質素なリゾート生活を大切にしたことから、シンプルな木造の山荘に渋い茶色の木彫家具の組合せは、すっかり軽井沢ライフを象徴するものとなりました。軽井沢とゆかりの深い建築家で、欧米式の合理的な住宅設計とキリスト教主義で知られるW・M・ヴォーリズも軽井沢彫を愛したひとりでした。現在も近江八幡の記念館には、彼自身のデザインと思われる軽井沢彫家具が大切に保存されています。
昭和34年、信濃毎日新聞に「軽井沢彫の手箱/正田美智子さんの調度品」という記事が掲載されました。美智子妃は生涯使われるお印として軽井沢での思い出に結びつく「白樺」を選ばれ、お道具のひとつにそれをあしらった優雅な軽井沢彫手箱を注文されたのです。たゆまぬ努力と創意工夫で伝統を受け継いできた職人たちにとっても、それは大きな栄誉であり、その後の発展の励みともなった嬉しいエピソードのひとつでした。
軽井沢彫写真協力/軽井沢彫工房 一彫堂
参考文献/軽井沢彫(西洋古典家具研究会発行)