ヴォーリズとレーモンド 〜軽井沢建築に影響を与えたふたりの外国人〜

明治時代半ば、西洋人の訪れにより避暑地の扉が開かれた軽井沢。今も旧軽井沢の小径を歩くと、古いバンガロー別荘に出会い、暖炉の石積みやペンキの剥れかかったテラスに、西洋の面影を感じることができます。
夏の清涼さを求め軽井沢を訪れた外国人の中には、当然ながら建築に秀でた人物の存在がありました。ひとりは軽井沢避暑団の理事長もつとめたW.M.ヴォーリズ、もうひとりは戦後日本の建築界に大きな足跡を残したA.レーモンドです。
彼らは軽井沢に夏のアトリエを構え、外国人に欠かせない“教会”や、快適避暑生活を送る“別荘”という軽井沢になくてはならない建物で、大いにその腕をふるいました。

 

 

photo1905(明治38)年、米国からキリスト教伝道を目的とした英語教師として来日し、琵琶湖のほとり近江八幡に赴任したウィリアム・メレル・ヴォーリズ (1880〜 1964)は、早くもその年の夏休みに友人エルモアと軽井沢を訪れています。幼いころ病弱だったヴォーリズは、大自然に囲まれたデンバーに移住して健康になった経験があり、緑溢れる軽井沢を一日で気に入りました。

二年あまりで教師を辞した彼は、京都YMCA会館の設計監理を皮切りに、独学に近い方法で経験を積み重ね、「ヴォーリズ建築事務所」を開設。欧米の技術を取り込みながら、学校・教会・オフィスビル・病院・個人住宅と、日本全国に多彩な建築物を生み出しました。

夏には事務所機能のほとんどを近江八幡から軽井沢に移し、ユニオンチャーチ・軽井沢会テニスコートのクラブハウス・軽井沢集会堂・マンロー病院など、避暑 生活向上のために結成された「軽井沢避暑団」関連の建物を次々と手掛けました。初期の宣教師の中にはミッション系学校の創設に関わった人物も多く、明治学院大学礼拝堂・同志社大学アーモスト館といった傑作は、夏の軽井沢で築いた人脈の結果といえるでしょう。

ヴォーリズがたびたび語った「建築物の品格は人間の人格の如く、その外装よりもむしろ内容にある」という言葉は、別荘建築にもよく表れています。下見板張りの壁に浅間石を積んだ煙突と、素朴な外観には派手な自己主張や華々しさは少しもありませんが、気候風土に即し、依頼主の気持ちに沿った温かみのある空間は、実際の暮らしの中でこそ快適さを発揮する見事なものでした。

アントニン・レーモンド(1888〜1976)が帝国ホテルのプロジェクトのため、 米国の建築家フランク・ロイド・ライトとともに日本を訪れたのは 1919(大正8)年のこと。師匠ライトが帝国ホテルの完成を見ず離日した後も、レーモンドとその妻ノエミは、日本建築への憧憬からこの地に留まる決心をしました。1933(昭和8)年には〝自分のために建てたものの中でもっとも楽しんだ〟と語るアトリエ「夏の家」を軽井沢に設け、スタッフとともにスタジ オワークを展開しました。現在塩沢湖のほとりに移築されているこの建物は、谷状の屋根や二階へのスロープの斬新さなど、木造モダニズム建築の伝説的存在となっています。翌年には、英国人神父の依頼で「聖パウロ教会」を設計、故郷チェコの尖塔を彷彿とさせる名教会が誕生しました。

夏の家も、聖パウロ教会も、杉・栗・カラマツ・火山岩など、できる限り地元で採取した材料が使われ、彼が日本建築の心と捉えた〝自然への信頼〟が貫かれました。同じ時代に、〝軽井沢スタイル〟と呼ばれた数軒の別荘群も手掛けていますが、残念ながら七十年経った現在は2・3軒が確認されるだけとなっています。

戦争のため米国に戻り、戦後、再来日を果たしたレーモンドは、『リーダース・ダイジェスト東京支社』『南山大学』で日本建築学会作品賞を受賞、名実ともに日本建築界の巨匠となりました。レーモンド建築の五原則は「自然にして、簡素で、質素で、力強くて、経済的」であること。ヴォーリズにも共通する〝自然に対する深い想いとシンプルな美しさ〟は、その後の軽井沢建築のバイブルとなっています。