軽井沢ー歴史的建造物を巡る[1]作家たちの残像

高原の避暑地として見出されてから一世紀余、軽井沢は数多くの作家や詩人たちに愛されるとともに、その作品の舞台となってきました。林の中の小径を注意深くたどれば、ここで人生の一時期を過ごした文人たちの、思索のあとを今も見ることができます。名作が生み出された別荘のたたずまいに、発想の源を知ることができるかもしれません。

旧朝吹山荘「睡鳩荘(すいきゅうそう)」
 
2008年夏、フランス文学者・朝吹登水子さんの別荘が〝軽井沢タリアセン〞に移築、公開されました。「睡鳩荘(すいきゅうそう)」と呼ばれたレンガ色の建物は、父親の朝吹常吉氏が親交の深かったW.M.ヴォーリズに依頼し、1931(昭和6)年に新築したものです。事業家として世界を駆け、家庭にもグローバルな視点を入れた氏の居宅らしく、1階にサロンを広く取った西欧風の造り。当時ヴォーリズが多く手がけた質素な山荘とはまた別の、新たな魅力を感じることができます。
旧軽井沢にあった当時、朝吹家の人びとはこの別荘に国内外の友人を招き、シャンパンなどを抜いて、避暑地の夕べを楽しんだのでしょう。母親の磯子さんが吟味した家具や登水子さん自身がフランスで見立てたカーテンなど、想い出のインテリアは今も残され、訪れる人に往時を彷彿とさせます。
「わが家には東西さまざまな様式のものがあるわけだが、それらの家具が一つの雰囲気を醸し出してくれれば、それが私の個性というわけだ」(朝吹登水子著『豊かに生きる』97頁)
ボーヴォワールやサガンと親しく交流し、日本とフランスの両文化の中で暮らしてきた登水子さん。生涯かけて豊かな精神生活を追い求めた彼女の軌跡は、その別荘で今も垣間見ることができるのです。
 
朝吹邸が軽井沢の異国文化と上流階級の華やかさの象徴であるなら、矢ヶ崎川に近い室生犀星旧居は、大正から昭和初期の文壇を思い、心静かに留まることのできる場所です。『抒情小曲集』『あにいもうと』など詩や小説の世界で活躍した室生犀星は、1920(大正9)年、31歳で初めて軽井沢を訪れます。この夏の想い出がよほど印象深かったのでしょう、以来、彼は毎年この地を訪れ、萩原朔太郎や芥川龍之介、松村みね子らと交流を深めました。
旧居は1931(昭和6)年、軽井沢と東京を往復する生活の中で建てられたものです。木立の中にひっそりとたたずむ平屋の日本家屋は生前のあるじを偲ぶように簡素ですが、この座敷に津村信夫、立原道造、志賀直哉ら往年の若き文人たちが訪れ、創作意欲を高め合っていたと思うと、静謐さの中から当時の熱気が立ち返ってくるかのようです。
犀星に誘われ、軽井沢を訪れるようになった堀辰雄も、避暑地の自然に惹かれたひとりでした。彼は『ルウベンスの偽画』『菜穂子』など軽井沢を舞台にした小説を多く発表していますが、代表作は青年と少女の淡い恋模様を描いた『美しい村』でしょう。アカシアの小径や流れる小川、点在するヴィラなど、繰り返し登場する情景が物語に瑞々しさを加え、また、いかに堀が軽井沢を愛したかを伝えています。
堀辰雄山荘として〝軽井沢高原文庫〞に移築・保存されている建物は、旧軽井沢に在ったサナトリウムの奥で1941(昭和16)年から4年間、多恵子夫人と共に過ごした別荘。堀はその後、追分にも家を求めており、終焉を看取ったこちらの家は〝堀辰雄文学記念館〞として油屋旅館のそばにその姿を残しています。
塩沢湖周辺には、ほかに有島武郎別荘・浄月庵や野上弥生子の書斎も移されています。
三笠から移築された浄月庵は、彼が波多野秋子との情死の場所として選んだことでも有名です。現在は記念館として貴重な手書き原稿や初版本を保存・展示。ショーケースの中には今も、当時の墨の跡を残す原稿用紙が並べられ、作家の面影を思い起こさせます。
浄月庵から道を挟んで建つ茅葺きの庵は、昭和を代表する女流作家・野上弥生子の書斎。1933(昭和8)年、北軽井沢に茶室を兼ねた簡素な書斎を建てて以来、春から秋にかけての長い期間を、野上はここで過ごしました。高浜虚子と月を眺めながら「ホトトギス」の話に興じたというのもこの書斎だったそうです

軽井沢 文豪の別荘