無題ドキュメント

100年前、軽井沢は『日本の西洋』だった

−宣教師ショーが遺したもの−

国内屈指の別荘地として長い歴史を育んできた軽井沢には、外国人として初めてこの地に別荘を持ち、日本人に避暑の概念を教えた宣教師ショーの生き方があらわれていました。

 「(軽井沢は)海抜三二七〇フィートという高地に位置しているので夏期は大変涼しく、さらに蚊がいないことも平野部の不快な暑熱を避ける場所として推薦できるもう一つの理由だ」これは今から120年前、英国公使館二等書記官だった英国人アーネスト・M・サトウが書いた外国人向けガイドブックの一節です。明治19(1886)年、英国公使館付牧師アレキサンダー・クロフト・ショーと、東京帝国大学(現・東京大学)英語教師ジェームズ・メイン・ディクソンの二人も、蚊のいない避暑地に胸躍らせて峠を越えたことでしょう。

 天明の浅間山大噴火(1783年)で植物が壊滅し、江戸時代には中山道の要衝として賑わった軽井沢宿も明治維新とともに交通手段が変わり、明治10年代には往来する人も激減し、すっかりさびれた状況になりました。
 新婚のディクソンはそんな街道沿いの旅籠に部屋を借り、米国に渡るまでの5年間、旅籠の主人たちに洋式ホテル開業の西洋指南をしました。一方のショーはニ手橋手前の小高い大塚山(だいづかやま)の上に家を建て、家族と健康的で敬虔な別荘ライフを謳歌しました。その後、誠実で人望も厚かった彼から避暑地の魅力を伝え聞いた当時の外国要人たちが、続々と軽井沢へやってくるようになりました。彼らはキリスト教を旨とし、スポーツや音楽を楽しみ、軽井沢の人々にも「自然を愛し簡素な生活をするように」と熱心に説きました。「聖地・軽井沢」のイメージはまさにこの時代に形作られたといえるでしょう。

 明治後期には外国人相手の商店が次々に出張店を構え、軽井沢には『日本の西洋』が出現しました。

参考文献「明治日本旅行案内」(平凡社)
アーネスト・M・サトウ(著)
庄田 元男(訳)